思慕の鏡像【第一段-1】


 竜がつどう丘よりはるか南西、メンディス魔導王国。ここでも、ひとつの異変が起こりつつあった。
 メンディスは精霊島随一の、超技術大国である。魔導学と呼ばれる学術体系を持ち、古来より神秘の力とされた魔法の技をも、理路整然とした学問に昇華させんとしている。だからこそ、あってはならぬことなのだった――最先端技術の結晶たる王都レストーグが、精霊島においてもっとも富める街が、快適な涼風ひとつ満足に得られないなどという醜態は。
「状況は、非常にまずいです」
 金属質の機材と、おびただしい数のケーブルがひしめきあう閉鎖空間。
「連中、パニックを起こしてますから。まだ不安定なネットワークに接続を……」
 広大でありながら雑然とした空間を埋め尽くさんとしていた無秩序な混乱を裂いて、魔導師たちの声が響きわたる。
 生命感のない鉄鋼と白い壁に囲まれたその中心に、鬼火に照らされた幽鬼のごとき青白い顔をした男が、黒衣をまとって座していた。
「通常回線を強制閉鎖。緊急回線で直接接合以外の通話があったら、片っ端からブチ切っちまえ。ひとつの例外も許すな」
 茫洋とした光源は、居並んだモニター画像の群れ。青白い光の明滅を睨みながら、彼は次々と魔導師たちに指示を飛ばす。
 その衣に刻まれたのは、魔導学がもたらした繁栄の枢軸のひとつ、魔導騎士団の紋章と認識票。突発的なトラブルには慣れっこの実験部隊が管轄する特殊開発棟もまた、凪いだ風の中で空気を求めて喘いでいる。
「現在提供可能なリソースは生命維持機構に回せ。通常稼動が可能な水準からは、絶対に落とすな」
 先の尖った耳朶に指先をやり、彼は端的に言う。思索に没入したときの癖だった。その目は目の前の監視パネルを鋭く睨んでいる。
「接続した端末は全部生きてる。それを普段どおり動かせばいいだけのことだ。それだけの状況は整えていられる」
 不規則に伸びた管の束を照らし出すのは、不吉な赤みを帯びた非常燈だけ。元の色も判然としない、どす黒く濁った黒の髪から影が落ちて、鋭い眼光が幽鬼のごとく浮かび上がった。その表情は、緊迫した空気のせいとはいえ、あまりにも硬く刃物のように尖った気配をはらんでいる。かつて彼らの始祖となった神の僕は、草花の守護者にふさわしく、たおやかな肢体と穏やかな心を持っていた。繊細な感性は、風にそよぐ木々のざわめきにさえ涙したというのだが。
 無駄な肉の無い体躯は共通していても、しなやかな指が叩くのは生命感のないキーの群れ。甲高い信号音ばかりを耳にする彼らは、さしずめ金属パイプの森に棲む機械の精といったところか。どす黒い照明の前を誰かが通り過ぎるだけで、気味の悪い陰影が壁に揺れるさまは、むしろ悪鬼がうごめく魔界を思わせた。
「リオン師団長」
 呼ばれて、魔界の主ならぬ魔導騎士団第七師団指揮官、リオンはゆっくりと振り返った。
 かたわらに立つ、女と見まがうような細い体躯の青年が、至極冷静に報告する。第七師団司令部補佐官、ミラ・ヴァンタードである。
「研究棟勤務の非戦闘員は、総員退避を完了しました。医療棟を含めた全管制区内で、空気清浄機構が稼動再開しています」
「そうか」
「生命維持機構の調整は問題ありません。接続機器における熱暴走の危険は皆無です」
 リオンはうなずいた。
「魔導騎士団内部にも若干名、体調不良を訴えている者がおりましたが、すぐに業務に戻りました」
「体調不良? 症状は」
「頭痛と吐き気を。おそらくは、空調の不備から、ごく軽い酸欠状態になったものと思われます」
 リオンは唇を噛んだ。
 彼ら自身のいる制御室のシステムが凍結した瞬間が、研究区の破滅する時――魔導騎士団の構成員全員のうちにある、暗黙の了解だった。そういう意味で、ここは現在の状況下では最も安全な区画だといえる。そこに最優先で庇護されるのは人命ではなく、ものいわぬ機械の内部を駆け巡る情報の群れであることは、このうえもない皮肉であった。
「で、それ以外には?」
 リオンが促す。
「特に問題は起きていません。機材の物理的損傷はきわめて軽微。現在修復中ですが、処理能力は通常どおりの水準をキープしています」
 と、別の魔導師が声をあげた。
「照明、戻ります」
 複数の金属部品がこすれあい、やがて互いにかみ合う、重い音がする。照明が点灯する瞬間、床全体がわずかに振動したかに思われた。闇に慣れた目がくらむかと思うほど、視界には克明に色彩が溢れかえる。
 リオンは息をついた。黒ずんだ髪に、藍色の光が弾ける。
「次に、実験用素体ですが。これは第四師団統括の医療棟への移送を完了しました」
 鮮やかな赤毛を軽くなでつけてから、ミラは言う。
「ルサリスを除く全素体が、休眠状態です」
「……昏睡状態の間違いじゃないのか?」
 ミラは苦笑した。
「生体活性レベルは安定しています」
「それならいいんだが。どうせしばらく、使い物にならんのは間違いないな」
 最後まで言い切る気力もうせたか、リオンは途中でひどく露骨に嘆息した。
「起きてるのは、ルサリスだけか……」
 一字一句区切って確かめる。ミラがうなずくのを見ると、リオンはシートから背中を浮かせた。そのまま軽く息を吸い込み、背後を振り返る。
「もういいぞ。出ておいで、ルサリス」
 答える代わりに、ミラは妙に形式ばったしぐさで頭を下げると、丁寧に足元のケーブルをどけた。
 最初に突き出たのは、白く細い指。それにふさわしい、繊細なつくりをした腕が、肩がゆっくりと抜け出してくる。姿をあらわしたのは、ほっそりした体躯の少女だった。
「ルサリス。本当に大丈夫なんだな?」
 リオンは苦渋に満ちた表情をしている。少女は、小さくうなずいた。
「私なら、平気だ。なんともない」
 長くつややかな黒髪が揺れる。白い肌はあたかも繊細な人形のよう。背中にせり出した翼は、虹色の輝きを放つ薄い皮膜でかたちづくられている。儚げではあるものの、リオンが彼女をなだめることもしないのには、ひとつの理由があった。
 殺気だった紫の瞳が、少女を可憐だとは言わしめない、何か背筋の粟立つような気配を放っている。人の姿を共有していながら、この美しき実験素体は、どこかが現実離れした造形を持っている。
 リオンが再びため息をついた。
 ただしそれは、稀有なる実験体の美貌に対する賛美ではない。
「ここは、空気が悪いな」
 それを聞いて、ルサリスは、かすかに眉をひそめた。
「リオン。なんだか苦しそう……」
 ルサリスは、そっとリオンの顔色をうかがう。
 完全封鎖された管制区の内部をやすやすと移動し、そして暗闇の中で、気配すら完全に絶って機材の影に潜む。そんな驚異的な能力をもちながら、彼女は何かに怯えているようだった。仮面のような無表情ながら、ほんのわずかにくちびるが震えている。
 あやうく三度目の嘆息を漏らしかけたリオンのかたわらに、ミラがつと身を折った。
「医療棟から報告が入りました。先ほど体調不良を訴える者がいたのと同様に、医療棟の魔導生体兵器が暴れ出す騒ぎがありました。きわめて広範囲において精霊力の均衡が乱れたことにあったようですが――その原因は調査中であるとのことです」
「広範囲?」
「具体的な範囲が特定できないほどの広範囲に及ぶ異常です。おそらく、この現象は精霊島全土においてみられるものと思われます」
「あるいは、全世界において、か」
 リオンは明らかに険悪なまなざしで、顔をしかめていた。
「廊下の空気はもっとひどいぞ」
 彼は報告の合間に、あやうく立ち上がりかけていたルサリスを制止する。
「いいから、座ってな。いくら最近は体調が良いっていっても、身体を痛めつけていい理由にはならないからな」
 かろうじて動力を確保した区画から一歩出ただけで、通路には蒸しかえるような熱気がこもっている。いまだ多くの空調機構が停止しているなか、外気に漂う粉塵を完全に遮断するために、ほとんど隔壁にも等しい窓は今も閉ざされたままだった。
 ルサリスは低くうめいた。
「リオン。私……」
「ん?」
 リオンが、そっとルサリスの髪を撫でてやる。見つめられて、彼女は落ち着きなく身じろぎした。
「外の風が浴びたい」
 ミラが一瞬、横目にものいいたげな視線を向けたが、弾かれたように顔をそむけた。
 研究棟を取り巻く外気は今、魔導師たちにとっては毒にも等しい状態にある。すなわち、常人とは異質な感覚が、ルサリスの胎内に芽生えつつある証だった。そしてルサリスの目は、自分の体に起きている事実よりも、むしろリオンが嫌悪感を抱くことを怯えている。
「駄目だ。ここで大人しくしておいで」
 強く腕を引かれて、ルサリスは安堵したようだった。
「私、どうかしてのかな。なんだか気分が昂ぶってくるのが、抑えられないんだ。風が止まろうとしてるのに。それも、何かよくない前触れのはずなのに。よくないものが目覚め始めているのに」
 リオンの黒衣にしがみついて、ルサリスは、リオンの手をそっとつかんだ。
「秩序が、乱れてる。この島が死にはじめてる。私は、あんなところへ戻されるのは嫌だ。あんな世界、私はいらないのに……」
 うなずくだけで答えぬリオンに、ルサリスは訴える。答えるかわりに、リオンは片手でゆるやかに手を握り返してやる。もう一方の手をコンソールから離せない今は、それがが精一杯だった。 
「それなのに、私のからだは、それを喜んでいるみたいだ」
 見開かれた紫の目は、じっとリオンを見ている。動きのないまなざしは、まっすぐに彼の横顔だけを見ている。
「これは、全てがおかしくなっていくきざし。すべてが、崩れ落ちていくように、混乱していく、秩序が失われていく前兆。私には、わかるんだ」
「ルサリス……」
 リオンが振り向いたのもつかのま、彼にはルサリスの独白を解釈する暇は与えられなかった。
「第六師団より入電。情報ネットワークが完全復旧しました」
 間断なく報告が飛び込んでくる。ルサリスは、そっと身を離した。
「データの回収状況は?」
 リオンはやむなくルサリスを残してモニターに向き直る。藍色の瞳孔に、青白い光が何度も焼きついた。
「復旧作業は八割がた完了しました。第六師団は緊急配備を解除、通常スペースへの転送ルート解放を要請しています」
 映像化された魔導師の像が、機械的に口を動かしている。
「承認する。これより破損フラグ修復との並行処理段階へ移行しろ」
 おそらくは自分も、同じように機械みたいな顔をしているのだろう。自覚しながらも、リオンは嫌になるほど的確に緊急作動用パネルを引き出し、キーを叩いた。めまぐるしくサインが明滅する。
「師団長。ルサリスの様子が変ですよ」
 ミラが、通信録のおさめられた媒体を、機器に挿入しながら言う。機械的な処理の過程を見る無駄手間を省いて、リオンはルサリスを振り返った。
「……怖い」
 彼女は両手で自分の耳を押さえこみ、細い肩を震わせている。
「ルサリス?」
 いささか荒っぽい手つきで、リオンは引き出していたパネルを再格納した。ルサリスが怯えきって、こちらにしがみついてくる。ただひとり信じられる人に身を寄せて、ようやく開いたまぶたの影に、かろうじて紫色の瞳がのぞいた。
 伏せた視線をそのままにしていたら、彼女が消え去ってしまいそうな気がする。そのくらい、頼りないまなざしだった。リオンはルサリスの肩を揺すぶった。
「どうした。何が聞こえるんだ?」
 手荒な叱咤を受けて、ぼんやりと焦点の定まらないまま、ルサリスは顔を上げる。その視線を追って顔を上げると、リオンはふと、やはり何か違和感を覚えた。
「わからない。わからないけど……今度は遠くで、風が荒れ狂ってる」
 ルサリスが不吉なことを言う。
「こんな風の流れは、異常だ」
「異常、ですって」
 ミラもつられて通風口を見上げたが、彼はいぶかしげに眉をひそめただけだった。ためしに鼻をひくつかせるが、やはり首を傾げてしまう。
「すこし埃っぽい気はしますが」
 普段はあれほど聡明な副官は、らしくもない愚鈍な答えを発した。
 そうじゃない。
 これまた常ならず、リオンが苛立ちをあらわにする。立ち上がりかけて――
 目眩がした。彼は額をおさえて、乱暴に髪をかき回す。。鳴りがする。鼓膜が張り裂けそうなほど甲高く響く機械音が、ひどくうるさい。
「そうではなくて……」
 リオンは言い淀んだ。
 いつのまに、こんな異変が起きていたのだろう。もどかしげに彼は口を開き、そして愕然とする。
 頭痛がする。重く、のしかかるような倦怠が、やがて嘔吐感までも運んできた。体が言うことをきかない。血の流れまでもが淀んで、腐っていく。手が、足が、腐って千切れてしまいそうだ。人体の内部にはいりこんで、身体を震わせて出てくるべき風の流れが……声が出ない。
 気づかなかった。この風も、とうに腐っていたのだ。
「……師団長?」
 ミラが、いくぶん緊張した表情をしている。
 こいつでも、たまにはこんな顔をするのか。リオンは、それを他人事のように感じ取っていた。
 思考を止めた意識は、何か重苦しい枷に囚われたかのように、闇の底へと引きずり込まれていきそうになる。闇の底へ――死者が眠る、地の底へ。
 リオンは足掻いた。このまま眠ってしまったら、汚泥のように全身の細胞がとろけてしまいそうだ。
 俺はイヤだ。あんな暗いところへは行きたくない!
 意地だけで、崩れ落ちそうになる足を奮い立たせると、さらさらしたものが腕に触れた。「リオン……?」
 静かに寄り添って、ルサリスが目をそらすことなくこちらを見ていた。あいかわらず、彼女は眉ひとつ動かさない。それはそうだ、彼女にとって、この風は苦しみをもたらすものではないのだから。
 この風は、ひょっとして冥界の、死者の集う世界から吹いているのだろうか。
 ゆっくりと、細い手が伸ばされるのを、リオンは見た。その手で、苦しんでいる俺の背中をさするつもりなのだろう、おそらくは。
 しかし、何故だろう。どう考えをめぐらせても、今はルサリスの姿がおぞましい。
 途切れそうな意識をつなぎとめるのが精一杯だった。理知的な思考などできない。ルサリスの背にある翼を目にしただけで、本能的な恐怖が次々とわきあがってくる。彼女は、俺が死ぬことを望んでいるのではないだろうか。ルサリスは、死者の世界の主たる存在の直系なのだから――
 違う。
 リオンはかぶりを振った。
 あれはただの昔話だ。記録にも残っていない、確証もない言い伝えに過ぎない。少なくとも、ルサリス個人とは、何の関係もない話だ。そうだ、彼女は――
「リオン、大丈夫?」
 冷たい手が触れる。
 悲しいかな、それだけで理詰めの思考は恐怖の彼方へ吹っ飛んでいく。リオンは背筋を震わせた。それはあきらかに、本能的な恐怖を含んだ拒絶だった。彼自身が理性によって押し殺していたものが、噴出してくるようだった。
「師団長」
 と、ミラが割り込んでリオンの体を支える。ルサリスは一歩後ずさる。いっぱいに目を見開いて、彼女はミラとリオンの間に、視線を往復させた。
「ルサリス。風が荒れ狂っているとは、どういうことなんです?」
 狼狽している彼女に冷水を浴びせ掛けるがごとく、ミラが問うた。その口調は、どんなになだめようとしても刺々しい空気に煽られて、詰問にも似た硬さを帯びてしまっていた。
「……私の……」
 ルサリスはあえぐように声を発する。
「私のせいじゃない。私は、ただ……」
「わかります。あなたが師団長に対して、害意など抱いてないことはね」
 今にも床に膝をつきそうなリオンを支え、ルサリスに煩わされて、ミラは明らかに苛立っていた。
「私は、あなたが感じていることを、私たちにも、わかるように説明してほしい、と言っているんですよ。風向きか、風の強さが変わろうとしているのが、あなにたはわかるのでしょう?」
 息を飲んで、ルサリスは喉を大きく鳴らした。
 いちばん頼りたい人に、彼女は近寄ることさえ出来ない。それだけで、世界の全てが崩れ去ったように思えた。足が竦む。本来なら熱いはずの空気が、あたかも凍てつくかのように感じられる。
「私は、好きであんなものを見たんじゃない」
 突拍子もないことを口にしはじめたルサリスから、ミラには有益な情報を得られそうもなかった。
「ルサリス……それはわかっていますから」
 思わずかたわらの指揮官を見る。コンソールのふちに手を置いて、リオンはようよう体を支えていた。やはり、声ひとつ出ないのだろう。その危機的な空気を鋭敏に感じ取って、ルサリスは怯えきっている。
「まただ!」
 背後で、誰かがまた悲鳴をあげた。
「何です? 状況を報告なさい」
 ルサリスの視線を知りながら、ミラは彼女に背を向けた。
「ネットワーク確立できません。再び暴走しています!」
 ミラは目を眇めた。
「やむをえません。暴走箇所を切り離しなさい!」
「了解。しかし……」
 応える部下の声は、緊張にうわずっている。リオン以外にも体調に異常をきたした者がいたことは知っていたが、状況は最悪だった。操作不能に陥った機器のモニタが、次々と意味不明の文字羅列に侵食されていく。
「持ちこたえてみせなさい」
 そうは言ったものの、ミラ自身にもこの事態を切り抜けられる確証はなかった。
 彼が狼狽をみせるわけにはいかなかった。組織体の行動とは、指揮官一人によって動かされるものではない。が、指揮官一人によって統率が突き崩される可能性なら、わずかなりとも存在するのだから。
「……空調を止めろ」
 くぐもった低い声に、ミラは背筋を震わせた。
「師団長?」
 愚直にも確かめ、振り返る。リオンは喉をおさえながら、どうにか体を起こしているところだった。
「空調を止めろ。そのまま待機!」
 彼は長年つとめあげた副官の耳をもってしても、同一人物のものとは思われぬかすれた声を押し出す。
「すぐに風の流れが変わる。送風孔を全開にして、外気を呼び込むぞ!」
 リオンは迷わず言い放った。部下たちが、気圧されて彼を見つめている。
「いいな、それまでは、なんとしても機構を持たせろ。それまでの辛抱だ」
 魔導師たちが目を見開いて、外の景色を見た。ここは高層棟の密閉空間である。窓は採光のためだけに、嵌め殺しの硝子が壁面に直接はまっているだけだ。
「これ以上、暴走区画を増やすな。復旧作業は、それからでも間に合う」
 リオンは止まりかけていた呼吸を、喉も裂けよとばかりに押し出した。口の中が、文字通りに鉄くさいにおいでいっぱいになる。
「暴走したのはもういいから、捨て置きなさい!」
 リオンの声帯が再び沈黙せざるをえないとみて、再びミラが部下を叱咤する。
「暴走していない機材を持ってる人は、自分の魔導を使って冷やして。なんとしても機構を保持するんですよ!」
 威勢良く手をたたきながら、彼は手際よく指示を出す。魔導師たちが適宜散って機材群を囲み、居並んだ。
「これで、よろしかったでしょうか?」
 振り向くミラに、リオンはうなずいた。
「なんとかなるだろう」
 言いながら、彼はミラのかたわらから身をもぎ離した。
「……こんな状態が、いつまでも続くはずはないんだ。どちらにしても、空調を介した風は、ものの役にも立たない……むしろ、風量が少なすぎて、かえって排気を妨げている。選択肢は少ないはずだ」
「それは、わかりますが」
「大丈夫。すぐに風は吹くさ」
 リオンの口調は、あまりにも強い。そのことにかえって不安を煽られて、ミラはかすかに眉根を寄せた。
「ルサリスの言ったことを信じて、決断なされたというわけですか?」
 さらに顔をしかめて、ミラは低くうめきながら言う。
「いや?」
 意外そうに目を瞠り、それからリオンはかぶりを振った。
「俺はそんなことで、ルサリスの言いなりになるつもりはない。他の師団の連中だって、同じことを考てるだろうよ」
「そう、ですか」
 ミラの視線を受けて、ルサリスがふりかえった。
 リオンが起き上がったとたんに、先ほど見せていた萎縮ぶりはどこへやら。彼女はうわついた様子で羽根をばたつかせ、リオンとミラの間に割って入ったかと思うと、リオンの腕を抱え込んだ。
「アーヌあたりなら、窓をぶち破ってでも外気をたくさんとりこもうとするかもしれないな。高層風で強められた、いい風が入るんじゃないか」
 リオンに言われて、ミラはあらためて、天井を見上げた。しかしその厚い建材を通じて空がのぞけるはずもない。彼は何も思うところがなかったらしく、再び視線を落とすと嘆息する。
「どちらにせよ、風の流れが変わる瞬間のエネルギーが流入するのを、待つしかありませんね」
 青白いモニターを見下ろし、ミラはいくぶん疲れた様子を見せていた。
「魔導師団からの通達はおそらく、事実です。魔導師団の開発棟も動力が落ちているようですし」
「珍しいこともあるもんだ」
 リオンは形ばかり、口元を緩めさせた。
「通信録を、記念にとっておきましょうか。捨てようにも、ゴミ箱が腐ってしまいそうですし」
「冗談にしちゃ、笑えないな」
 そう言って、リオンは笑おうとしたが、こわばった皮膚はそれ以上の湾曲を拒んで、彼は結局中途半端な笑みを飲み込んだ。
「どうした、ルサリス」
 執拗にまとわりつくルサリスに、リオンがいぶかしげな視線を向ける。
「何かまた、動き出した。風が止まってから、いやなものが次々と動き出している」
 嫌悪感をあらわにして、ルサリスは低く呟く。
「リオン。この街にも、私の同類がいるの?」
「同類?」
「太古の天使のこと」
「ああ。……模造品だけどな」
 リオンは顔をしかめ、うなずいた。
「この近くに、いるの?」
 ルサリスはおぞけをふるって、肩を震わせながら言う。
「風が止まってから、もう何人も目を覚ましているみたいだ」
 太古の天使を模したという造形物は、王都のとある研究施設に保管されている。しかし、あれはもう動かすことも出来ない、ただの人形であるはずだった。
「あいつらも、キャルフィと同じように私を探しているんだ。私のからだが欲しいって言っている。私を食べたい、私を……」
 そこでルサリスは言葉を切った。
「私を、犯したいって」
 もう一度、大きく背筋を震わせる。蜻蛉の羽根がひくついた。
「そいつらのことが、怖いのか?」
「違う。怖いのは、私が……そいつらと戦って、そいつらを全部殺してやりたくて、たまらないこと。あいつらを叩き伏せて、いたぶって、屈服させてやりたい。どうしよう、リオン。私……」
 それでさっきから、彼女はひとの体温を確かめたがっていたのか。彼女は自分の感情を把握しきれず、怯えているのだろうか。そのどちらとも判断できぬ危うさをはらんで、ルサリスはただリオンの腕にしがみついている。
 昂ぶる闘争本能に理性を失った人間は、多くの場合、別の本能――多くの場合は性欲――に身を任せることを、リオンは考えなかった。。
「師団長。第六師団からのネットワーク連結に関する情報処理要請がきています」
 またしても、魔導師からの報告が入った。
 ……妙だな。リオンは常ならぬ対応に、首を傾げる。むろん困惑しているのは、彼に指示を仰いだ部下も同じだっただろうが。
「認証手続きはこっちでやる。処理コードをまわせ」
 ルサリスに腕を拘束されたままのリオンの前に、ミラがコンソールパネルを引き出した。
 引き出されて――リオンの表情が曇る。そこには何も映し出されていない。
「クランタム? 処理コードを転送しろ」
 呼ばれた魔導師は、自身の管理するコンソールの上で指を止めたまま、阿呆のように口を半開きにしている。
「…………?」
 かたわらにいる魔導師も、忙しくキーを叩き続け、自身がこなさねばならない処理を必死で片付けている。そのあいまでさえ、不審な空気は伝わったようだった。横目にちらちらと視線をよこしている。
「クランタム管理官」
 キーを叩こうとしていた手が、ひきつっていた。男は口をわななかせる。
「転送するまでもありません。ただちに処理を開……」
 最後まで言わせる気も起きなかった。
「何をするつもりだ! 転送しろ、命令だ!」
 回線越しに、リオンは一喝する。呆けていた魔導師の目に、一瞬にして正気の色が戻った。
「あっ……いえッ、了解! ただちに、転送します!」
 ようやくモニターが切り替わり、求めていた処理画面が表示されていく。リオンはさらに疑念を深めた。何もかもがおかしい。あれほど普段から行ってきた訓練が、何の意味もなしていない。
 逃げ出すことも、いっときの思慮にふけることも許されず、彼はひたすらキーを叩いた。青白いモニターに映し出されたウィンドウが、めまぐるしく切り替わる。
「……リオンっ!」
 ルサリスが声をあげた。ルサリスにさしのべていた手が、きゅうっ、と強く握り締められる。紫色の瞳孔が、心なしか収縮しているように見える。そのまなざしは、別種の生き物のように見えた。
 彼女に言われるまでもない。リオンは目を眇めた。最終処理の承認を求める入力画面が、やたらに白く映りこむ。
 すべてが、おかしい――これもまた、何らかの異変の兆候となるはずだった。
「近づいてくるよ」
 ルサリスが吐息した。
 何か――許されざる異物が。小さいが、覆しがたい違和感が湧き上がってくる。同時に、ルサリスは背後を振り返った。かがみこんでいた姿勢から背筋だけをしならせて、獣じみた威嚇の唸り声を上げる。
「な……んなんだ、これは」
 ルサリスが感じている何物かが、リオンの意識にも流れ込んでくる。存在しない器官をくすぐられるような異様な感覚に、全身が総毛だった。
 ルサリスはすでに、反射的に得物を探して視線をめぐらせている。その手が自分の剣にかかるのを見咎め、リオンは強引に彼女のからだを腕にとらえた。結果として、キーを叩く手が止まる。
 また別の魔導師が、振り返った。
「師団長。再度にわたって処理の申請がきていますが……」
「なんですか、それは」
 今度はミラまでもが疑念をあらわにした。
「すぐに返答する必要はありません。いったん保留しておきなさい」
「は」
 ミラはすぐにリオンに向き直った。
「大丈夫ですか、師団長」
「ああ。問題ない。それより」
 リオンはモニターを顎でしゃくった。
「どう思う?」
「あまりにも不審、としか。要請というには、要求される内容があまりにも一方的すぎますし」
「タイミングも不自然だ。……決まりだな」
 うなずいて、リオンはルサリスを拘束する腕を緩めた。再び両手をコンソールの上へと滑らせる。さすがに先ほどの叱責が堪えているのか、ルサリスはその場にうなだれていた。
「追加接続処理は黙殺しろ。送信元を解析するんだ」
「は……」
「以後、通信システムを残し、一時的に第七師団統括領域を封鎖する」
 次々と瞬いては切り替わるモニタ画面から数秒だけ目を離し、リオンは強くまぶたを閉じる。眼球をお情け程度の涙で湿らせると、彼は再びモニターを凝視した。
 かたわらでは、ルサリスが不服そうにリオンの黒衣に腕をもつれさせている。頬が触れ合うかと思うほどの至近距離で、紫の目がまたたいた。その瞳は、あきらかに血なまぐさい気配をはらみ、物騒な欲望にぎらついている。
 猛獣を膝にのせているような切迫感を感じながら、リオンはあらためて天井の排気口を見上げた。ひんやりと心地よかった涼風が、しだいに緩まりつつある。室内にまで蒸し暑い外気のにおいに満ちてくれば、焦れたルサリスを引き止めるのは、彼の力をもってしても難しくなるだろう。
「緊迫した事態、とはこのことですね?」
 かたわらに立つミラの視線は、端末のモニターよりもむしろ、ルサリスに向けられていた。
「何が起きたというのでしょう。何者かに、回路に侵入されたのでしょうか」
 そんな痕跡はない。リオンは首を横に振るしかなかった。
「そうじゃないと思う。むしろ、まったく無関係なノイズに、機材が勝手に共鳴した感じとでもいうのかな……それに付随して起きた、単なる事故だという気がする」
「事故、ですか?」
「ただひとつ推測できるのは、すべての原因は、おそらく精霊力の均衡が崩れた、今の大気の状態にあるだろう、ということだけだ」
 端的な推論だけを与えられて、ミラは表情をかげらせた。
「それでは、ルサリスの同類――いえ、模造品が目覚めたことも……?」
 ルサリスが、ぴくんと羽根を震わせる。
「ああ。風の影響を受けた可能性が非常に高い」
 子供にでもやるようにルサリスの頭を撫で、リオンはうなずく。
「この王都で、稼動するであろう個体があるとしたら……王立美術館の《人形》しか考えられない。ルサリスが“自分を探している”と言っているのも、おそらくはそこの保存物品だろうな」
 王立美術館は、王都の中心部に位置する文化施設群のなかでも、もっとも古い建築物のひとつだ。その古びた佇まいは、歴史の重みよりも、むしろ過去に置き忘れられたかのごとき寂寥の念をかもしだす。つまりは、魔導学における研究分野の“流行り”から取り残された、過去の学問が細々と生き長らえている場所なのである。
「すでにそれらが、ここへ向かって動いているとは、おっしゃいませんよね?」
「さすがに、それはないと思いたいが」
 リオンはもう一度ルサリスの髪を撫でる。ルサリスは心地よさそうに目を眇めたが、彼は苦りきった表情をしていた。
「美術館側の管理者の能力を信じるしかないのが現状だな」
「王立美術館というと、例の……ウリル・パバエラ管理官ですか」
「そういうことだ」
「ということは、こちらの手持ちの戦力で、なんとかするしかありませんね」
「それなりの手は打ってある。なんとかなるだろう」
 もはやリオンとミラとのやりとりに割り込むこともせず、ルサリスは、されるがままに横たわっている。しかし、手足はまだこわばっていた。
「暑くありませんか、師団長」
 ミラが横目にそれを見ながら言う。隣にルサリスをもたれかからせたまま、リオンは真顔で副官の顔を見上げた。
「ひがむなよ。お前も頭撫ででやろっか?」
「そうではなくて」
 眉ひとつ動かさず、ミラはかぶりを振った。
「このまま、後手に回るおつもりですか?」
「ああ。ルサリスを出せない以上は、待つしかなかろ」
「この状態でですか?」
 リオンはうなずいた。
「この状態で、だ。ルサリスはこのまま待機させる。薬剤を使って、意識レベルを強制的に低下させれば、ルサリス自身の精神構造を守る防御機構まで停止してしまう。万が一、出撃させる場合を考えれば、やむを得ないな」
「出撃ですか。……そうならないことを願いますよ」
 ミラは嘆息した。
 リオンはもう一度、ルサリスの顔を見る。獰猛な天使は首をもたげて、硝子の向こうの空を見つめていた。