思慕の鏡像【第二段-2】

――暗鬱な目覚めだった。
 重い体を引きずって、アスティラークはどうにかベッドから這い出した。
 寝ている間に誰かが着替えさせてくれたのだろうか、薄着なのに、体じゅうに、ぐっしょりと汗をかいている。額にへばりつく湿り気が気持ち悪くて、彼は思わず乱暴に髪を振り払う。
 あんな夢を見た意味は、なんとなくわかる。竜騎士としての力を暴走させ、助けてくれる者もいない不安が、あんな依存心剥き出しの夢を見せたのだ。己の弱さに辟易する。後味の悪い夢には違いなかった。
 なぜだか無性に頭が重い。体が焼けつくように熱かった。目覚めてみれば、悪夢よりも恐ろしい記憶が次々とよみがえってくる。
 アイルウィンは、僕の友達は、あのあとどうなったのだろう。
 慄然として思い返す――あたたかかった肌が冷えていく瞬間を――あんなに溌剌とした友人のまなざしが、乾いた死人の顔になった瞬間を、僕は鮮明に覚えている。あいつは、僕に自分の力を託したと言った。何のために? なぜ、アイルウィンは死ななくちゃいけなかったんだ。一体あいつが何をしたっていうのだろう。アイルウィンの授けたという「力」によって、突然、彼の竜は赤子の姿から成体に変じた。それはおそらく、ひとつの個体が占有しておくには、あまりにも強大なエネルギーだったのだ。体内から際限なく湧き上がってくる力を、自分は制御しきれなかった。
 すべて僕のせいなのだろうか? 周囲を吹き始めた風が、どんどん勢いを増していったのを覚えている。ゆったりしたトーガが、引きちぎられそうなくらいに、ばたばたとはためいて……
「……あれ……?」
 ふと、アスティラークは髪を強くかきむしった。風が吹き始めた――そこから先の出来事が、どうしても思い出せない。僕も気を失ったのだろうか。頭がくらくらする。

「大丈夫ですか!?」
 さいわい扉の開く音で、暗い思考が一度途切れた。
「ラルド」
 見慣れた顔を目にして、アスティラークはひとつ、大きく息をついた。いつのまにか、床に膝をついていた。その音を聞きつけたのだろう。後ろへなでつけた髪も端正な騎士がひとり、足早に歩み寄ってくる。見慣れた自室の天井は薄暗く、場違いな礼服がひどく浮き上がって見えた。
「僕なら大丈夫。それより、アイルウィンは……どうなったの?」
 無意味な問いだと知りながら、アスティラークは衝動的にそれを口にせずにいられなかった。ラルドは、ただ黙って首を横に振った。穏やかな目も今は伏せられて、その表情はただひたすらに硬い。
「……そう」
 頭の芯が痛いほどに冷えていく。真っ白になっていく意識の中で、涙ひとつこぼれないことが、昂ぶった体にはひどく辛かった。
「僕は、どうして、ここに戻ってるんだ? 儀式は? 儀式のあと……みんなは、どうしてるの?」
 彼は矢継ぎ早に質問を繰り出していた。友人のアイルウィンが倒れた儀式の途中で、僕は――。断絶していた記憶が、ふたたび怒涛のように押し寄せてくる。
「儀式はもう終わりました。アスティラーク様は、儀式の途中で倒れられたのですよ」
 ラルドは、丸っこい目の真上の眉を、みごとなくらいにハの字形にしている。この場合は渋面と呼ぶのがふさわしいのだろうが、アスティラークには泣き顔のように見えた。
「倒れて……?」
「儀式の際に起きた、不規則な気の流れが、お体に障られたのです。休息と、必要な栄養さえ摂っていれば、何の障りもないそうですよ」
「すまない。心配をかけたみたいだ……ね」
 後半は、うまく言葉にならなかった。
 遮るように、アスティラークの目覚めを知った、彼の仔竜が飛びついてきたのだ。
 ついさっきまでは、てのひらに収まるほどの大きさだった赤ん坊の竜。本来の大きさならばどうということはない行動だが、先ほどの儀式の影響で、アスティラークの身長ほどにも膨れ上がった図体で同じことをされては、たまらない。
 押しつぶされる――
 が、それは幸か不幸か、杞憂に終わった。
「ウィード! やめろ」
 アスティラークの警告に、一瞬後、甲高い悲鳴が重なり合う。図体ばかり大きくなった赤子の竜は、見えない壁にぶち当たって、見事に跳ね返されてしまった。
 アスティラークは反射的に、円の近くに手を寄せる。それだけで、硝子の壁に接しているような、固い質感が存在しているのがわかった。何も無いはずの「そこ」へ手を伸ばすと、ひんやりとした感触とともに、てのひらが押し返される。
 完全に閉じ込められている。
「結界だ」
 少年の険しい声音に怯えて、ウィードは不安げに鳴きはじめる。
 これも僕の力を封じ込めるためのものなのか?
 床に敷かれた文様を見てとって、アスティラークはきつく唇をかむ。明らかに彼を中心に、彼だけを外界から隔離する格好で、簡素な正円がひとつ、描かれていた。内部にいる者に対する、外界からの隔離を示すしるし。
「これは一体……?」
 きゅうきゅうと鳴きながら、ウィードは再び結界へ体当たりを試みていた。さっきの突撃だけでも、すでに鼻先が、こすったように赤むけになっている。すんでのところで、ラルドが制止に入った。
「シオーネ様がおつくりになられた《壁》です。外の風が障らぬようにと」
 言いながら、ラルドはウィードの前足の付け根を、窒息しないように押さえこんだ。甘えた鳴き声を出して、ウィードがもがく。
 ウィードの首にはまっている宝石の、青く澄みきった色が目を射る。むろんアスティラークが、こんなものを与えた覚えはない。目を凝らせば、すぐにわかる。これは彼女たち風竜の力を封じるための護符だ。
 僕には、封じられるまでもなく、魔法など使えないはずなのに。
「じゃあ、その首輪も?」
 その問いにも、ラルドは慌しくうなずく。人間の大人の胴まわりほどもある竜の首に振り回され、たたらを踏んだ。
 洒落にならない。
「ウィード、おとなしくしてろって言ってるのが、わからないのか!」
 気がつくと、アスティラークは、ひどく険しい叱責を発していた。びくっと硬直する仔竜。当然のように、ラルドの制止など必要もなく、彼女は完全に動きを止め――
『ぴゃぁあああああああああああぁぁぁぁああぁ!』
 文字通り、泣き出した。
 呼吸にも等しく、たやすく風を起こす大人の風竜の声帯が、赤子と同じ声量の声を発したのだからたまらない。首輪にはまった宝石は輝きを増し、相当量彼女の力を押さえ込んでいることを示していた。それでもなお、一瞬だけ室内に無秩序な風が吹き、テーブルに置いてあった小物が盛大な音を立てる。
「…………。」
 見かねたラルドが、そっと背中を撫でてやった。もちろん、竜の朋友ではない人間の体温など、ウィードにとっては何の意味もなさない。彼女はラルドの手を振りほどき、しゃくりあげながら部屋の隅っこにうずくまった。
 アスティラークが唇をかむ。
「アスティラーク様。これを」
 と、ラルドの手が、結界の上を難なく素通りした。アスティラークは目を瞬く。彼らにとっては絶対的な効力をもつ障壁も、竜騎士ではない、つまり竜語魔法の理屈に従っていない者にとっては、何の枷にもならないのだった。考えてみれば当たり前のことだ。
「シオーネ様からの伝言です。己の内にある、濁れる流れを鎮めよ。流れのうちにあるものを見定めよ、と」
 彼が差し出したのは、それこそ小指の先ほどの大きさの、小さな硝子玉だった。見たこともない道具だ。内部に、ごく小さな、青い光の粒が渦を巻いている。一体何に使うものなのだろう。
「流れって?」
 さらに課せられた伝言に、アスティラークは困惑する。
「それ以上は、私には何も。ただ、試練の子――アスティラーク様のことです――に、竜の朋友として外へ赴く資格なしと判断した場合は、この硝子玉を破壊せよと命じられました」
 期待はずれの、にべもない返答。ウィードが不安そうに鳴きはじめる。
 アスティラークはひとつ、小さく息を吐いた。
 これだけの緊急事態に、竜騎士団や、その関係者が誰も顔を見せない理由が、アスティラークにはすぐにわかった。おそらくこの奇怪な品物を引渡すには、竜語魔法の理屈を知っている人間は不適任なのだ。
 それはなぜか。
 まずひとつには、この硝子玉は竜騎士たちが越えることのできない結界を越えて、いま手渡されなくてはいけなかった。それは、なんのためか――この硝子玉が、自分を何かのふるいにかけるための道具であることは明らかだ。しかし、ただ一方的にテストを行うだけなら、結界をつくる前に、寝ている彼の枕もとへ、無造作に書置きでも置いておけばいいはずだ。
 それなのに、わざわざ自分が目覚めるのを待って、この硝子玉は運ばれてきた。それは、目覚めた自分の顔色を見てはじめて、謎かけを与えてよしと判断するためではないか。
 ラルドの顔色を見ていたら、すぐにわかった。自分はただ、気遣われていただけなのだ。
「シオーネ様はもっと単純に、ズルしないで、自分ひとりの力で答えを見つけなさいって言いたいんだろうなあ、きっと」
 せめてこの硝子玉を、竜騎士の誰かが持ってきてくれたのならよかったのに、とアスティラークは考え……ふと思い至る。多少なりとも竜言語の知識をたくわえた者なら、シオーネの謎かけは、たやすく解けてしまうのではないか。
 退出するラルドを見送り、黙して、アスティラークは硝子玉をてのひらにおさめた。
「流れ、か」
 ぐるぐると回り続ける青い粒子が視界いっぱいに広がった。アスティラークは、ゆっくりとベッドに腰掛けなおして、その玉の内部をじっと見つめる。
 定まった道筋があるようにみえて、実に不規則な流れ。ほかの粒と互いにぶつかりあい、跳ね返し、ときには壁にぶつかり、また奔流の内部へと戻っていく光。おそらく水の流れを模したものだろう。
「己のうちにある流れ」
 人間の内部にあって、とうとうと流れ去っていく水のように、とらえどころがないものといえば。己の内にある流れといえば――
 ごく簡単な、竜語魔法の基本理念。水をつかさどる竜騎士たちが、好んで用いる言い回しだ。
「己のうちにある流れっていうのは……僕の心のことだ」
 人の心とは、流れ行く水のような存在。触れれば流れが変わることもあるのに、それでもなお、とらえどころがないもの。時とともに、うつろいゆくものだ。
 では、その濁りとは、すなわち。
「僕自身が、自分のやらなくちゃいけないことを、見失ってるってことだ」
 硝子玉をぎゅっと握り締める。
「流れを鎮めよっていうのは、気持ちを落ち着けなさいって意味だ」
 冷たい感触はすでに消えており、汗ばんだ肌のぬくもりにあてられた、なまぬるい熱が跳ね返ってきた。
「すくなくとも今、僕がやらなくちゃいけないのは、だらだら寝ていることなんかじゃない」
 アスティラークは、甘えた声をあげて擦り寄ってくる仔竜と、結界越しに額を触れ合わせた。この国のために剣をとる者として、竜騎士として生涯離れ離れになることのない盟友が、ここにいる。夢の中で感じた孤独感は薄らいでいく。
 そうだよな、僕は一人じゃない。今の僕には、お前だっているものな。
「僕がやらなくちゃいけないことは、その流れのうちに――僕の心の中にあるんだって、教えてくれてるんだね」
 アスティラークが導き出せる答えはひとつしかなかった。

 鍵となるのは、さっきみた夢だ。
 多くの精霊島人にとっての夢解きは、生活と切っても切り離せない、ごく一般的な習慣である。夢というものを、決して軽んじてはならない。眠っているときに不可思議な夢をみるのは、眠った人の精神が現実にある肉体から離れ、夢みる者だけが見ることのできる、別の世界へ迷い込むせいだとも言われている。目覚めているときには知覚できない世界を覗き込むゆえに、夢は、古来より多くの予見をもたらしてきた。
 夢の世界は、現実の肉体が受ける物理的な法則など一切通用しない。それゆえに、肉体から解き放たれた心は、本人が忘れかけていた記憶にも触れ、より強く、己の心を感じとるのだ。

 記憶を反芻してみる。
 夢の中で、僕はイリューズを探して歩いていた。まわりはずっと暗闇に包まれていて、僕はひどく寂しかった。
 そして、血が繋がっているとはいえ、まったく別の個人であるルサリスを、イリューズと勘違いして追いかけた自分。あのときの僕は、彼女の心のありかたを捻じ曲げて、ルサリスをイリューズそっくりに作り変えようとしていた。
 なんてことをしていたのだろう――と、またしても思う。人恋しさが見せた、ただの幻にしては、あまりにもできすぎていた。
「僕はイリューズに会いたいんじゃない」
 心の隅に巣くったままの甘い感傷を、アスティラークは強く否定しようとした。
 彼女は死んでしまった。悲しいけれど、僕にとっては、乗り越えなくてはならない過去でもある。同時に、まだ乗り越えられない障害物でもあるのだけれど。
「それに……あれはただの夢なんかじゃなかった」
 ルサリスを自分のものにしたいと願ったときのあの恍惚と、夢から醒めるまぎわに感じた、あの罪悪感。すべてが、今も胸の奥にずっしりとのしかかっている。
 自分はたしかに「見た」のだ。今は亡きイリューズや、その姉のルサリス、太古の天使たちの精神世界を。そこは人間が見てはいけない、見ることができないはずの世界であるはずだった。
「それを僕が見てしまったのは、何故?」
 手がかりとなるのは、ただひとつだった。背中に翼を持たない自分と、太古の天使たちの世界をつなぐ、唯一の接点といえば――
「答えは、イリューズだ」
 ひょっとして、イリューズの霊が、自分に危難の存在を伝えようとしているのではないか。いま竜騎士たちが直面している危難、秩序の崩壊とは、もっと別の災厄が、自分には迫ってきているのではないか。
「……でも、何が?」
 それはわからないけれど。
 アスティラークは首をひねる。倒れたときにどこかで打ちつけたのだろうか、肩が鈍く痛んだ。が、不思議と思考は途切れない。
「あの子の声を、もう一度聞きたい……僕は、もう一度イリューズに会いにいかなくちゃいけない気がする」
 思いながら首をかしげてみせると、ウィードもそろって、同じように首をひねってみせた。幼くして死んだ姫君の肉体は、もう正式な埋葬も済んで、その肉体は骨のひとかけらも残っていないはずだ。
「こんなときに、他の国にまで彼女のお墓をみにいってどうなるんだって思う? でもね」
 アスティラークは続けた。
「僕は、今でも彼女の想いを感じることがあるんだよ。イリューズの思念は、まだこの世界のどこかに縛りつけられているんじゃないかって。肉体を失っても、彼女は眠りにつくことができずにいるんじゃないかって、思えてならない。イリューズが好きだった、あの庭に行けば、いまでも彼女が僕のことを待っていてくれる気がするんだ」
 ウィードが首を横に振った。
「そうかな……悲しいけど、僕は、イリューズが死んだあのときから、ちっとも前に進めていない気がするんだ。お前がなかなか大きくなれなかったのも、そのせいだね」
 竜とその朋友たる竜騎士は、合わせ鏡のようなものだという。竜が持つ魔法は、物質的な姿を保持し、力を振るうための媒体、受け皿となる竜騎士の力量が伴ってこそ成り立つものなのだ。
「ごめんね、ウィード。僕が前に進まなくちゃ、きみも大きくなれないよね」
 仔竜の首に巻きつけられた飾りが擦れ合って、金属音が響く。それを見て、アスティラークは自嘲気味にため息をついた。
「僕は、どうかしてる。僕がまずやらなくちゃいけないのは、アイルウィンが与えてくれた力を制御してみせることなのに……頭の中は、またイリューズのことでいっぱいなんだ」
「みゃあ」
 ところが、違う、とでもいうように、ウィードが突然強く首を横に振った。
「……その前に、まだやらなくちゃいけないことがあるって?」
 アスティラークが怪訝そうな顔をする。と、ウィードが突然、ベッドサイドの引き出しを引っ掻き回し始めた。
「あっ。何するんだよ!」
 構わずウィードは、散乱したがらくたの奥から、きらきら光る一片の金属片をくわえて、引っ張り出してきた。そのままアスティラークに向かって見せてくる。
「それは……」
 水晶樹の花をあしらった髪飾り。イリューズの遺品だった。銀のフレームは手入れをしていないので、かつて輝いていた葉の部分も、ずいぶん曇っている。咲いた姿のまま保存された花弁だけが、いたずらに光を放っていた。
 捨てる気にもならなかったのは事実だが、見るのさえつらかった品。実のところ、アスティラークはそれを眺めて彼女の思い出に浸ったことはなかった。だから、自分の部屋の引き出しに仕舞ってありながら、すぐには取り出せない、がらくたの奥に埋もれていたのである。
「こんなもの大事に持っていないで、早くあの子のことを忘れろってこと?」
 ウィードは髪飾りをくわえたまま、激しく首を横に振った。
 きらきらと花弁が光る。

「あ」
 アスティラークは目をみはった。いやおうなく、夢に見た情景がよみがえる。輝く花の台座に座して、彼を誘った少女の姿が。
 彼女は言っていた。
――あなただって、本当はわかってるくせに。体が勝手に、別の誰かを求めるの。言うことをきかないのよ!
 体が、勝手に、自分とは違う別の誰かを求める?
 アスティラークは知らず知らずのうちに、口元に手をやった。自分自身の皮膚が放つ、薄気味悪いほど柔らかいぬくもりが指先に伝わってくる。
「僕がイリューズを忘れられないのは、気持ちの持ちようとか、そんな次元の問題でどうにかなるものじゃない、ってこと? ……つまり、僕自身にはどうにもできないってことなの?」

 古代の伝説は語る。定められた伴侶を失った天使は、多くの場合錯乱し、すぐに衰弱して死に至ったという。彼らはつがいとしての関係を確立させると、完全に一心同体、むしろひとつの生き物として相手と融合してしまうためだ。
 太古の天使は、本能的に相手のあらゆる情報を読み取り、共有する。天使同士のつがいであれば、彼らの内面は双子のように、寸分たがわぬ存在に変じていったという。姿までもうりふたつになった夫婦もいたという俗説もある。
「あの子たちにとっては、個って概念は、それほど大事な物じゃないんだ」
 人間は生まれてくるときも死ぬときも、結局は一人である。が、人間という種族としての常識は、種をたがえる天使たちには通用しない。
 地上に降りて別種族――つまりは人間――の異性と結ばれた天使のゆくすえは、例外なく悲惨である。人間の側は、最初から相手と思考を共有するようには出来ていないのに、彼らは同族に接するのと同じようにして、人間の異性に近づこうとするからだ。結果として、天使の側が一方的に相手の情報を読み解き、自分の内面を相手に同調させていく傾向だけが顕著になる。自意識はどんどん薄弱になる。
 そして伴侶に一方的に依存するようになった天使の精神世界は、支えを失うと一瞬にして崩壊する、脆いものへと変貌していく――一人きりでいるのには耐えられない、ただ何かにすがっていたい、弱い存在に。
「あの女の子は、自分と一緒にいてくれる人なら、相手は誰でもよかったんだ」
 ただじっと、彼を見つめているウィード。そのまま首を振ると、水晶樹の花は結界の上を通り抜けてアスティラークのてのひらに落ちてきた。
 夢の中の少女がすがってきたときの、やわらかな感触がよみがえる。あの子の肌は、この花みたいにきれいな、儚い色をしていた。僕だって、ずっと一緒にいられるのなら……別の子でもよかったのかもしれない。イリューズのかわりをしてくれる子なら。
「それなら、僕は……」
 僕は知っている。彼女ならきっと、イリューズのかわりをつとめてくれるだろう。
 だって、あんなに似ているのだもの。僕が好きだった、あの可愛いお姫様と同じ、さらさらの髪と白い肌と、虹のかけらのような羽根を背中に持つ女の子――ルサリス。
「……いま僕が会いたいのは、イリューズじゃなくてルサリスだっていうのか」
 アスティラークは苛立って、乱暴に髪をかきむしった。

 あのとき、自分を見失っていたアスティラークを叱咤し、夢の世界から目覚めさせる役割を果たしたのは、リオンだった。彼は、僕にいろいろな警告をしていた。
 あの世界は、本来なら人間が見てはいけない場所であったこと。そして彼が、リオンの記憶と、自分の記憶を混同させつつあったこと。リオンはひたすら、彼に、早くこの悪夢から覚めろと言っていた。そして(夢特有の突飛な手段ではあったが)正気を取り戻させてくれた。
 現実世界にいるリオンに頼れば、窮地にある自分を、ひいては竜騎士たち全てを助けてくれると、夢が教えてくれたのだろうか。
「そんなはずはない」
 アスティラークは首を横に振った。
 リオンはたしかに(魔導学という、限られた学術分野においては)優秀な魔法使いだ。だがその造詣が竜言語にまで及ぶことは、決してありえない。軍事組織としての竜騎士団それ自体が、最高機密として竜との交信技術の一切を外部に対して秘匿しているのだから。
 少なくとも、長年にわたる訓練を要する竜語魔法は、門外漢が片手間に習得できるようなものではない。決して。
「そもそも、あの人たちは、僕たちの竜語魔法に興味なんてもってるのかな?」
 現実世界のリオンに会ったところで、自分はきっと何ひとつ、有意義な問いを投げかけることはできないだろう。ひょっとしたらリオン自身、アスティラークにとって益になる情報など、何ひとつ持っていないのかもしれない。夢の中にいた魔導師は、何かもっと別の、アスティラークの内面の何かを投影して現れた、合わせ鏡のようなものであるはずだ。
「……もしも、夢の中の僕が、自分の記憶を読み違えていたのなら」
 太古の天使との関係に苦しみ、助けを求めていたのは、僕ではなくて、リオンの方だったのかもしれない。もちろん、あの奔放な精神が、牢獄に囚われた姫君のように救いを求めているなど想像もつかない。あまりにも似合わないけれど。

「だけど、そうだとしたら……」
 そうだとしたら、ルサリスでもイリューズでもない、あの少女たちは。
 夢の中で、アスティラークたちをとりかこんで、花の台座に埋もれて笑いさざめいていた、あの天使たちは。
「あの子たちは、一体誰だったの?」
 現在、生存が確認されている女性型の天使は、メンディス魔導王国が調査分析対象としている実験体《ルサリス》しか存在していないはずだ――メンディスが、あるいはそれ以外の頭脳集団が《ルサリス》以外に、別の天使を生み出していなければ。
「僕らの知らない、天使の個体が、まだどこかにいるんだ」
 アスティラークはベッドから跳ね起きた。
「きっとそれは、メンディスにいる」
 そのまま、ためらいなく結界を踏み越えて、部屋の外へと向かう。慌てて甲高い声を発して、ウィードが追いすがろうとした。
 だが、こちらは結界にはばまれてはじき返される。振り向きもしないアスティラークの背に、甲高い泣き声だけが長く尾を引いた。

「シオーネ様ッ」
 扉を開け放ち、アスティラークは叫んだ。
「……若様?」
 目の前には、目をまるく見開いたラルドがいるだけ。彼は困惑して、ぼんやりと立ち尽くしている。
「僕を、メンディスへ赴くことを許してください。シオーネ様」
 それでもアスティラークは、貫禄のない自らの容姿で可能な限りの敬意を示して、ゆっくりと頭を下げた。棒立ちになったままのラルドに向かって。
「もう、僕にはわかりました。いま自分が何をするべきか、いまは自分の心に聞けばいいってことが、わかったんです」
 そのまま、アスティラークは手にした硝子玉をラルドの眼前に突き出した。
「目に見える出来事にだけとらわれてはいけない。しかし、己が目にした事実を否定してもいけない。そうですよね?」
 その硝子玉に映るのは銀髪の青年ではなく、闇色の髪の女性。
「上出来だ」
 ラルド(あるいは、その姿をとっている何者か)が、ことさらに彼を見下ろすように顎を上げ、目を大きく開いてみせた。まるで教師が生徒の答えに満足したように、何度かうなずいてみせる。
「己の心の命じるままに進むがよい、少年よ」
 ラルドの刈り上げた銀髪が、音を立てて長い髪に変じ、その姿を覆い隠していく。それが広がり、目を射るかと思うほど艶やかな光を放ちながら、青年とは異質の姿をかたちどっていった。
「お前もあれを見たのだから、わかるだろう?」
 強い輝きの反動で、その足元にはひときわ黒い影がわだかまり、それが次第にふくらみを帯びて、そちらもまたもう一人分の、人間のかたちをとり――そして、どさりと音を立てて、ラルドの体が床に転がった。
「あれこそが、お前が立ち向かうべきものなのだ」
 足元に青年を倒れ伏させたまま、アスティラークと向かい合ったのは、たしかに先ほどまで硝子玉に映っていた女性だった。
 ラルドを助け起こすことも忘れて、アスティラークは体をこわばらせた。
「シオーネ様……」
 シオーネは、しごく体格に恵まれた騎士でもあった。豪奢な儀礼用の衣に包まれた長身は、一見すればほっそりと華奢にも見える。だが、ぴんと伸びた背筋は、憔悴しきった少年を威圧するかのようだった。その均整の取れた体躯は、しなやかな筋肉によって支えられていた。
「すべてはお前の双肩にかかっているのだよ、アスティラーク」
 長く伸ばした髪を押しのけて、先の尖った耳朶がのぞいている。シオーネはあきらかに、竜騎士の一員でありながら、魔導師としての身体機能を備えていた。

「天使たちの精神世界を覗いてしまった人間は、自分たちとの、あまりの精神構造の違いに耐え切れずに、心が壊れてしまう」
 シオーネが、アスティラークの顔を間近にのぞきこんだ。
「そして人間の心に踏み込みすぎた天使は、己の思うがままにならない精神に振り回されて、結局自分を保てなくなってしまう」
 まるで猫のようにくるめく瞳は、ごく深い藍色。
「そんな両者が、つがいとしての関係を成立させたところで、一体何のメリットがあるというのだね?」
 アスティラークは、息が詰まりそうになって、無理やり唾を飲み込んだ。不自然に大きな音が、喉で不快にひっかかる。
「自己を保存するための性行為さえおぼつかず、生存さえ不安定な子孫しか残せない。あまつさえ、精神世界の崩壊を招くほどの機能不全を相手にもたらす生き物。そんな馬鹿な生き物が、あるものか」
 女性体の天使と、人間の男性が性的な関係をもったところで、両者には生物として何の利益もない。
「それなのに、人はみなあの生き物に魅せられ、つがいの関係をもつことを望んでしまう……いや、望まさせられてしまう、と言うべきかな」
 あれは魔性のものだから。姿を見てしまったら最後、人は、あれに魅入られてしまう。
「お前ももうすでに、天使たちの仕掛けた罠にかかっているのだよ」
 シオーネは断言する。
「罠。……そう、かもしれません。でも」
 シオーネの瞳が、じっと自分を見つめている。
「でも、たとえそうだとしても、僕は」
 このまま黙らされるのが嫌で、アスティラークは必死に言葉を喉から押し出す。だけど僕は、一体どうしたいのだろう。
「天使どもは、お前が愛した姫君の思い出を利用して、お前と関係を結ぼうとするだろう。あの姫君になりかわり、お前に愛されようと、近寄ってくるはずだ。……事実として、お前はイリューズ姫の姉であるルサリスを恐れているはずだよ」
「違います」
 つよくかぶりを振るアスティラーク。
「いくらルサリスの力が強大でも、そうそう、イリューズが結んだ絆を断ち切れるとは思わない。ルサリスと同じ力を持った天使と、すでに契りを結んだから。きっとイリューズが味方してくれます。僕はルサリスの虜にはならない」
「そうだろうね……お前は強いね」
 シオーネがそっと、アスティラークの髪に触れる。
「天使たちが、愛するものと一緒に添い遂げられないこと、それ自体は、たしかに不幸なできごとです。だけど、それは……僕らにあだなそうとしているわけじゃない。同族の滅びたこの世界に、生まれついてしまったから、彼女たちは寂しがっているだけです」
 なにか不穏な予感に駆り立てられて、アスティラークはまくしたてた。まるで、これから狩られる天使たちを守ろうと、躍起になっているかのような。
「だからこそ、だよ」
 躍起になっているかのような――いや、違う。
「やがて人間の男たちは、悪意無き天使に、残らず駆逐されるだろう。そして残った女たちは、なすすべなく滅びてゆくだろう。人間たちが、人間として同種の子を残すことができなくなるからだ。繁殖のための連れ合いを、残らず天使たちに奪われるのだから」
 シオーネは、太古の天使を狩ることを、あきらかに自分に望んでいる。
「どちらかの種族が滅びるまで、この戦いは終わらない。あれは精霊島の生き物を滅ぼすために遣わされた死神なのだ」
 アスティラークはあとじさった。

「だからこそ、お前が天使を狩るのだ。いや、狩らねばならない」
 アスティラークは慄いた。この深く青い色は、あまりにもリオンの目と似ている。あの魔導師に、似すぎている。
「お前は、自分の同族が滅びることを望むような臆病者ではないだろう」
 深い青色に包まれて、アスティラークは知らぬ間に、食い入るように女の瞳を見つめていた。くちづけを交わす前の恋人のように、至近距離で。
「この世界を、ともに救うのだ」
 自分たちの世界を。
 自分たちの種を守るために。
「一緒に戦おう、アスティラーク」
 抱きしめられて、耳元で聞こえた低い囁きが、なぜかリオンの声に聞こえた。
 頭の芯がくらくらする。夢の中で感じた無力感、自責、苦しみ、悲しみが、一気に押し寄せてきた。もう、押しつぶされそうだ――

「わかりました“リオンさん”、僕は戦います」
 いつしか微笑さえ浮かべて、アスティラークは答えていた。まっすぐに虚空を見上げたその瞳には、シオーネが満足げに笑ったのが見えていたかどうか。
「ともに戦おう」
「ともに戦いましょう」
 手渡された剣の感触が冷たく、ひどく心地よい。
「世界を救うためなら、この手がどんなに血で汚れたって、構いはしない」
 湧きあがる昂揚感に酔いしれながら、アスティラークは高らかに誓った。

――この日、ディザード帝国のすべての竜騎士が≪探求≫の試練を得た。
『異変の元凶をつきとめよ。そして、精霊島のすべての民に警告を。』
 勅命に従い、竜騎士たちは精霊島の各地へ散ることとなる。民の期待を受け、多くの騎士たちが華々しい出立の儀をもって旅立つなか、アスティラークにその始まりを告げる儀式だけが、こうして密やかに執り行われたのだった。