思慕の鏡像【第三段-2】

「……それはともかく、その≪創世≫論が事実だったとしても、そんな大仰なものが現在も稼動しているとは、俺には到底思えない」
 逸れかかった話題を、リオンが軌道修正した。
「順当に≪創世≫による生物の進化なり改変なりが進めば、お前がさっき言ったような≪制御機構≫は必要なくなるんじゃないか?」
「それは、まあ、そうだね」
 バスターは、苦りきった口調で肯定した。
 生態系のデザインが進み、生物が進化してくれば、当然制御する対象の絶対数は際限なく増える。ただ≪天使≫を増殖させるだけでは、間に合わない。≪天使≫自体もまた、≪制御機構≫と同期することで、負荷をかける存在なのだから。
 結果的に、≪制御機構≫は、全生物の生命活動に、いちいち介入することをやめ、各個体に元来備わった本能や自由意志を尊重するものへと刷新されることになった。だが、そこに至るまでには、制御機構内部で多くの競合や対立があったに違いない。
 それを擬人化して伝承に残ったものが≪旧き大地の聖女≫なる存在だ、とバスターたち≪機構論≫の信者たちは考えている。
「今はもう、≪制御機構≫は用を終えた。≪制御機構≫が停止している、とは考えていないのか?」
 リオンの問いに、バスターは曖昧ながらも、首を横に傾げて否定の意を示した。
「たしかに、僕らの原種である竜族は今も、通常の手段では、この世界で実体を保つことさえできない。人類種と、竜族の間では、意思の疎通が一切できない時期が長く続いた。
 だけど、竜族が≪制御機構≫と同じように、世の理を捻じ曲げる力を持たないと、どうして言い切れるのかな?」
「言い切ってはいないと思うけど、誰も」
 ロウルがうそぶいたが、バスターはあまり斟酌した風もなく続けた。
「≪制御機構≫の主は、この世界から竜を排除した。
 そのうえでなければ、さっき言った、生態系をのっとる行為もできなかったからだ。
 竜族が『竜の朋友、つまり竜騎士たちが人類の中から生まれるよう、人類種の遺伝子の改変を行えるだけの範囲』でしか、この島に現れることができないのは、≪制御機構≫によって何らかの制約を受けた結果なんじゃないかな、って。
 かりにも、この島すべてを支配していた生物の生き方にしては、現在のあり方はあまりに控えめ過ぎるとは思わないかい」
「あまりに話題を広げすぎるのは、よくないと思うわ」
 ロウルが嫌悪感をあらわにして顔をしかめた。
「それより、≪制御機構≫がこの世の理を捻じ曲げる、と言ったわね。
 私たちがこうして呼吸して生きているのも、その≪集合体≫のおかげだとでも?」
「それはわからない。けど、ありえないとも言い切れない。
 …天使の話に戻ろうか。
 今も、天使たちは≪集合体≫からある種の信号を受信して動く存在である一方で、≪集合体≫内部の符号をより新しいものに書き換えるべく情報を集め、≪集合体≫へと送信することもしているんだ。
 模造種の解体時に、データを見ただろ? 天使たちは、単独で生存することができず、外部の機構と、同一の存在といってもいいほど緊密な関連性をもってる」
「じゃあ天使の人格そのものは……その≪集合体≫とやらの内部に組み込まれたものだっていうの? 肉体は、ただの操り人形だとでも言うの?」
 アーヌが意を決して辛らつな要約をすると、身を屈めてバスターが答えた。
アーヌの言ってることは大筋は正しいよ。操り人形という表現にだけは、齟齬を感じるけど。さっきも言ったとおり、≪集合体≫にとって、ルサリスはもとよりすべての天使は、≪集合体≫内部の≪符号≫に対して影響を与えうる存在でもあるからね。
 でも、天使の人格の根幹をなすと呼べる部分が≪集合体≫の内部に根ざしているのは間違いない事実だと思う」
「思う? 適当な推論で発言しないでほしいナ」
「模造種だけじゃない、天使の原種種族全体で共有するべき≪符号≫が確実に選別されて、個人の脳なんかじゃない、外部に保存されていることはもう実証されたも同然の状況にあると、リオンの部下がすでに報告を始めてるよ」
「うそぉ……?」
 ロウルが派手な悲鳴をあげ、フィックスが無言のまま、それぞれバスターとリオンの間に視線を往復させる。
「ディアーナの≪尻尾≫のことか?」
 リオンだけが困惑したようすをみせた。
「むろんウリル・パバエラ管理官が創造した≪天使≫ディアーナが、模造種としては違法も甚だしい水準の複雑な機構を備えてはいるのは間違いないようだが――だからといって、≪天使≫の≪原種≫と呼んでもよいかどうかも、まだ明確な結論は出せないはずだ」
 リオンは怒りも苛立ちもしていなかった。ただ疑問だけをこめた口調は静かだった。
 バスターが首を横に振り、困惑した様子をみせた。
「あなたの部下は、あれに殺されかけたそうじゃないか。まさに≪天使≫そのものの念話を操り、しかも、天使模造種の範囲から大きく逸脱した生物――あれだけの条件が揃って、≪天使≫の≪原種≫以外にどんなものの可能性が考えられるというの? ウリル・パバエラ個人が作成した、まったく新規な人工生物? そんな新種を創出できるような魔導師が、なんであんな古びた研究室に今までおさまってこれたのさ」
 バスターがその反駁を慌しくさえぎった。
「あのパーツには金属はひとつも含まれていなかった。そして≪天使≫の≪原種≫は人為的な補助がなければ生存することもできない、って貴方もさっき認めたよね。そうだよね」
 執拗に零距離から顔をのぞきこもうとするバスター。さすがに辟易して鱗に覆われた顔面を押しのけ、リオンは一度大きく息を吐いた。
「……ちょっと。離れてくれ――ディアーナの身体すべての部位があの≪尻尾≫と同じ組成だと断言できる理由がどこにある?」
パバエラ管理官が、極端に狭い分野、≪天使≫種族が持つ権能に関する研究に没頭することで知識人としての地位を守ってきた、病的なほど保守的な魔導師だよ。≪天使≫の権能を備えた生物のからだに、機構論に属するもの以外でできた継ぎはぎなんて不要だ」
 それを聞いて、アーヌはふてぶてしい笑みを浮かべた。
逆に言えば、パバエラにはそれしか長じたところがなく、≪回路≫を利用せずに自律性をもった存在を創出するほどのレベルの技術は絶対に持っていないってことも意味しちゃうわけだケド?」
そう馬鹿にしたものではないかもしれないよ。パバエラはすくなくとも≪天使≫研究に関して、メンディス王国の正式な魔導師籍を所持している人間のなかでは、一番多くのノウハウをもっているかもしれない」
「もうすぐそれさえ、過去形になっちゃうヨ」
 アーヌが肩をすくめた。
数日以内に、天使種族に関する構造解析は完了する。パバエラ管理官が独占していた研究のノウハウはメンディス国内共有のライブラリへ送信されて、必要な業務に携わる魔導師全員にアクセスする権限が与えられることになってる」
 いい気味だ、とアーヌが嘲笑した。ロウルが不思議そうに見下ろしながら、口元にかわいらしく指先をあてる。
「アーヌ、あんたなんかあの人に恨みでもあるのぉ?」
なにとぼけたこと言ってるの! バジルはあいつが作った模造種のせいで大怪我をしたんだヨ、忘れたわけじゃないでしょ!」
私もあの人はキライだったけど、それとこれとは別問題よぉ。個人所有の知的財産を公共のライブラリに晒した挙句、所有者から全ての権利を剥奪するっていうのはいくらなんでもやりすぎだと思わなぁい?」
「俺も、そう思う。魔導師団が行った処断はあまりにも露骨だ」
 リオンが口元に手をやり、ふと考えこむそぶりを見せる。
「魔導師団も……もといメナーデも、パバエラが持っている研究成果を是が非でも知りたいことだろう。だが、もしパバエラから知識を提供させるのが目的なら、あんな強引な機密解除をさせてもまったくメリットがない。それに、パバエラが所持していたノウハウだって脳みその中身全てが文書化されていたりはしないだろうし、暗号化されたものの方が多いくらいだろう。彼の持つノウハウを入手したいなら、パバエラにもうすこし人道的な処遇を与えたほうがいいはずだ」
 パバエラの、もともと高くもない魔導師としての地位を貶めることが、そんなに重要なのだろうか?
――いや、それは今考えることじゃないな」
 リオンは首を横に振った。
「そうだヨ! ああもう、なんであんな気持ち悪い爺さんの話なんかしなくちゃいけないのサ、費やした時間と舌を動かすのに使ったカロリーさえ惜しいネ!」
「じゃあ黙れば?」
 さっきまでのお返しとばかりにバスターが言い放ったが、期待したような反応はまったく得られなかった。アーヌはよほど動転しているのか、吐き気をこらえるような仕草をして、窓のほうへ顔をそむけてしまっている。顔色は蒼白だった。ロウルとディルスが、責めるような眼をバスターに向ける。
ぼ、僕なら言われたい放題でもよくて、アーヌはだめだっていうの?」
「そういうわけじゃないとが、それよりバスター。お前の説明にはまだ飛躍した箇所が多すぎる」
 リオンが話しかけると、バスターは瞳を輝かせた。
「なあに? リオンは何が知りたいの? 貴方にならなんでも教えてあげるよ」
「まず、ルサリスに関してだが、俺は確かに何らかのサポートが必要だろうとは発言した。だが、なぜそれが≪回路≫によるものに限定されなくてはいけないんだ?」
「リオンこそ、ルサリスの欠損した身体機能を補完するためにどうやって≪集合体≫にかわる手段を見つけるというの?」
「だから、その仮説にすぎない≪集合体≫をなぜすべての前提に――」
 顔を押しのけられたぐらいでは、バスターは引き下がらない。大きく息を吸い込んで、リオンが耳を塞ぎたくなるような大きな声を張り上げ始めた。
「ルサリスの≪回路≫を停止させたら、彼女の体に大きな影響が出ることは確かなことは、リオンが一番わかってるはずだ!
 いや、ルサリスだけじゃない――あれだけの≪権能≫をもった個体を≪集合体≫の内部から消去してしまったら、≪集合体≫そのものが機能不全に陥るかもしれない。
 リオンが言ってることは、巨大なプログラム内部から、データやサブプログラムをひとそろい、他の部分への機能補完も善後策もなしにいきなり消去するのと同じなんだから! ルサリスの精神構造に関しては、今後も慎重に――」
「あんな毒虫に、姫君扱いなど必要ないッ!」
 バスターの発現をさえぎったのはフィックスだった。
 ここまで発言を控えていたフィックスは、怒りのあまり顔を真っ赤にしていた。バスターにつかみかからんばかりである。
「≪太古の天使≫は女帝グレイシャが研究していた負の遺産だぞ、どうせろくでもない機構に決まっている。壊れてしまったほうがこの国のためではないか」
 これに対し、バスターはあいかわらず鷹揚な態度で答えをつき返す。
「中途半端な破壊では、グレイシャはすぐに≪復元≫されてしまうよ。≪集合体≫はそんな単純なものじゃない。グレイシャだけじゃない、回路にちょっとした破損があれば、どこからか補完する機能が働いて、彼女の回路の内部に破損があっても、すぐに修復されてしまうんだ」
「ずいぶんとお前は、その回路とやらが持つ力を高く評価しているのだな」
 唸るような、フィックスのいらえには、冷酷にバスターをこきおろすニュアンスが多分に含まれていた。
 ただの口喧嘩になりかけた流れを変えようと動いたのは、リオンだった。
「バスター。お前が独自の研究を続け、天使種の異能を解析したことに対してけちをつけようとして、みんな発言をしているわけじゃない」
 バスターのすがるような目。その眼前で両の手のひらを空中で押さえる、落ち着きを促すサインを何度か繰り返してから、リオンは注意深く言葉を継いだ。
「ただ、混乱しているだけだ。お前が今提示している結論に達した経緯を、俺達に教えてもらいたい」
 バスターはかろうじて、説明を始めたときの笑顔をとりもどした。制止されて罵声を飲み込んだフィックスが、喉をおかしな具合に鳴らしている。
「まず、ルサリスの≪回路≫を消してしまうことが危険だと、初めて気づいたきっかけとは何なんだ?」
「みんなが砂漠に遠征したときに、ルサリスだけじゃなくて、別に天使の混血でもなんでもないリオンが一緒に倒れたことがあるでしょ。そのときに、ルサリスとリオンの細胞や細胞のデータを本国に急送してもらって、ほかの正常な≪回路≫を発現しているペアの細胞や血液と比較しておいたんだ。
 ルサリスの具合が悪くなるのは、導き手であるリオンと共有している≪回路≫のうち、最新の情報を取り込んで≪回路≫どうしを同期させる機構がうまく働いてないからじゃないか、っていうのはすぐにわかった」
「そんなわかりきったことを、わざわざ『調べた』だと?」
 フィックスの、苛立たしげに床を踏み鳴らす靴音が高くなった。バスターが、ディルスとアーヌに目配せする。二人は両側からフィックスをなだめようとしたが、ほとんど無視されていた。
 それは同じ天使≪原種≫に属する他の個体、特にキャルフィとの差をみれば誰の目にも明らかなことだと魔導騎士団のほぼ全員が認識していた。ルサリスの同系にあたる≪始祖≫の直系にあたるはずのキャルフィは≪導き手≫であるリジアスと完全に意識を同調させており、何をとってもルサリスとは対照的なほど、頑健な身体組成を体現している。
 バスターは心底不思議そうに小首をかしげた。
「ルサリスの≪回路≫が他の何か――たとえば≪導き手≫や他の天使の≪回路≫と連動しているのは理解できるんだね。それなら、それを断ち切るにはしかるべきやりかたで符号を除去しなければ、すくなくともあなたの血族の精神か肉体かが崩壊するかもしれないっていうのに、それがどうして理解できないんだろう?
 ルサリスとリオンの身に危険がないように≪回路≫の影響を断ち切るには、やみくもに天使の細胞だとか術式だとかを消したり壊しただけじゃだめなんだ。瑣末な傷程度のものでは瞬時に修復されていまうし、とりかえしもつかないデータ破壊を起こしてしまったあとでは砂漠で起きたのよりさらにひどい発作が起きて、命に関わるかもしれない」
……。」
 ロウルとアーヌは不安のあまり、大きなため息をついた。
「リオンくん、死んだりしないでね! ボクが頼りにできるのはリオン君だけなんだから!」
「私もよぉ、愛してるわ!」
「鬱陶しい!」
 激昂したのはフィックスだった。
 彼が目の敵にしているのは、なにもルサリスのことだけではない。天使にかかわるものすべてが、今やフィックスにとっては唾棄すべき敵と化していた。ルサリスの導き手であるリオン、そして何らかの符号を仕込まれているらしいディルス――このプロジェクトの行方次第で、フィックスの血族は残らず天使に≪盗まれてしまう≫かもしれないのだ。
余計なことはするな、こいつらのことは、私が護ってやる」
 フィックスは人目も構わず、ディルスとリオンを自分のそばに引き寄せようとした。一瞬にして偉丈夫の腕に捕らわれたディルスの細い胴体は、抱かれたというより、ほとんど宙吊りにされつつある。
「やめなさいよ!」
 ロウルが抗議じみた悲鳴をあげた。ディルスが窒息する前に、どうにか掬い取って腹の入る姿勢を確保できたが、リオンに関しては間に合わなかった。非常識な握力で、強く腕を掴まれている。
 フィックス・ホアハウンドとリオン・ペリウィンクル。すくなくとも現王国の法律下で異なる家系に籍を置く二人の騎士の間には、いかなる血縁関係も存在しない。
 だが、フィックスがリオンをはじめとする≪血族≫に対して抱いている独占欲・支配欲は少々常軌を逸したレベルにあった――平素はごく親しい者でさえ気づくことも難しいくらいに、フィックスはその≪歪み≫を周囲の目からたくみに隠してきたのだが。今はこの、意図的に人払いがおこなわれた場所柄が災いした。外部から目撃される危険もないかわりに、フィックスの知的武装ともいえる≪完全無欠の指揮官≫としての仮面も剥がれ落ちたようだ。
 (……フィックス兄さんの≪血族≫に対する執着心は、もはや精神異常の域ネ)
 アーヌは救いを求めるようにリオンを見上げた。リオンはもはやなれたものだと言わんばかりの無表情だった。アーヌは今も、半年前の砂漠で見た光景を忘れられなかった。
 リオン・リジアス親子の戦いの最中、フィックスがいきなり横合いから魔剣≪神々の黄昏≫による攻撃を加え、リジアスを容赦なく消滅させようとしたことである。
 リオンは死霊術師リジアスの核を破壊することを望んではいるが、あの親子がお互いに向ける敵意にはまだいまひとつ、煮え切らないところがある。化け物になってしまったはずのリジアスにさえ、思春期の若者らしいところが残っているように見えた。リジアスにはまだ生身の青年として蘇生する手段を与えられるとさえ、リオンは考えているのかもしれない。それなのに――
 フィックスは何の容赦もなく自らの所持する魔剣で戦闘に介入し、リオンの眼前でリジアスを核ごと消滅させようとした。まるで自分の力を借りることだけが、リオンにとって最善の選択肢であると信じているかのような。
 あの、一方的な横槍の入れ方ときたらなかった! いくら血の繋がりがあるからといって、あんな理不尽な所業が、許されていいはずがない。
 完全無欠に思えるこの≪黒い戦鬼≫の中にも、いびつな感情はいくらでも渦巻いている。
「フィックスさま、ボク達をどうかお守りください」
 ボクたちのことを、忘れないで。貴方の剣を必要としているひとは大勢いるのだから。
 ぐう、とフィックスの喉が鳴った。悪鬼のような形相をアーヌに向ける。彼は表情をこわばらせたままだったが、結果的に怯えきったディルスからは顔をそむけてくれたので、子供にそれ以上の恐怖が襲い来る危険性は回避された。
 その『おまじない』を唱えることこそが、アーヌがいかなるときもフィックスの顔色をうかがっている理由だった。
「ルサリスは、あなたから大切な家族を奪ったりはしない」
 バスターが静かに言い添えた。
「むしろ彼女は僕たちにとって、貴重な戦力になってくれる可能性のほうが高い。ルサリス自身が、強力な戦闘技能者でもあるんだから。それに……」
「天使種族の交配計画を効率よく利用できるからか?」
「そんな言い方やめてよ」
 バスターは嫌悪感を示して大きく身震いした。
「戦士である貴方のほうが、僕よりも彼女の技量の凄まじさをよく知っているはずだよ。だからそんなに、ルサリスのことを脅威に感じているんだ。ルサリスに、対≪天使≫戦でめざましい功績をあげさせて、軍人として推挙してしまえば、ルサリスは僕たちの絶対的な同志になってくれるはずだ。だって、そうすれば彼女はもう天使種族の共同体には戻ることができなくなるんだもの。不可能な話じゃないはずだよ、アーヌや僕みたいな前例もいるんだから」
 強い身振りで、自分とアーヌを指し示す。リオンは物言いたげな顔をしていたが、あえて沈黙を通した。フィックスの表情が、ただ情動に突き動かされた狂乱めいた様子が影をひそめていたからだ。冷徹な打算に類する悲しいものではあるが、思考をおこなう平静さを取り戻してゆくのが見てとれる。
「ルサリスは、グレイシャを消滅させる救世主になってくれるかもしれない――なぜなら彼女は、グレイシャが百年かけても再現できなかった天使の精神世界に、直接アクセスすることができるんだ。そしてそこに、僕らが共有する魔導学の徒が≪導き手≫として直接関わっているこの稀有な現象に、貴方は本当に何も感じないの?」
 バスターは、まずはフィックスにとどめをさすことにしたようだ。
「彼女を現代人と同じ無力な生物にしてしまうなんて、せっかく引き抜いた聖なる剣をわざわざ土に埋めるようなものだよ」
 今度こそ、フィックスはぐうの音も出なくなった。
「リオンだって、ルサリスにはメンディス王国国籍を取得させたいでしょ?」
 フィックスを沈黙させたことで気が大きくなったのか、バスターは今度はリオンを標的に変更した。
「なにも彼女を一般人にすることにこだわる必要はないじゃない。同じ騎士団に所属する同志になってもらえば、職場でも甘い結婚生活が堪能できるしね!」
「勝手に決めるな」
「えっ、職場結婚がいやなの? リオンってお嫁さんにはいつも家にいて料理や掃除ばかりしていてほしいと思ってるのか、古くさ……痛ッ」
 間髪いれず、ロウルの履いたヒールがバスターの足に突き刺さった。
「ちょっと団長を言い負かせたからって、調子に乗らないほうがいいわよ」
「おじちゃん、大丈夫?」
 ディルスが擦り寄ってきて、リオンの制服のすそに抱きついた。
「ああ」
 フィックスは先ほどとはうって変わった、憔悴した表情で立ち尽くしていた。てのひらはまだリオンの肩に置かれているが、高圧的な態度は消えている。まるでリオンにすがっているようにさえ見えた。
 バスターが悶絶したわずかな間隙に、全員が沈黙する。
 あくまで平静を装ってはいたものの、リオンは困惑していた。
 グレイシャが遺した、天使と異種族の≪交配計画≫――そこに自分が関与しているという嫌悪感と恐怖はもちろん消えない。しかしバスターの荒唐無稽な≪制御機構≫なる世界観に、不可思議な吸引力を感じるのも事実だった。
 世界律とは。万物のあらゆる事象を統御するものとは何なのか。それはあらゆる魔導師、いや、あらゆる学派の魔法使いたちがめざす真理である。バスターの仮説に説得力とか、理論の美しさを感じたわけではなかったが、好奇心とすら呼べない混沌としたものが、精神の奥底にしまいこんだはずの熱情を疼かせている。
 だが――複雑にかみ合わされた歯車のように、罪悪感が押し寄せてきた。
 『暖かい、誰にも邪魔されないって思える居場所が欲しい』
 まったく意に沿わぬ動乱に翻弄されるルサリスは、どう思うだろう?
「それで、リオン。ルサリスの今後のことなんだけど」
 足を踏みつけられたダメージから回復したバスターが、おずおずと会話を再開させた。
「先ほどの話は興味深かった」
 リオンがうなずくと、バスターはまるで弾けるような笑顔をみせた。
「たしかにルサリスの体から≪回路≫全てをすぐに切除すること自体は、とても危険なことだとは認めざるをえないようだ」
「そっ、それじゃあ僕の理論に……」
「まだ賛成も反対もできないと、さっきも言わなかったか? ルサリスの精神がどんな構造をしているのか、さらに精査する必要性は俺も感じていたことだ。お前の仮説を支持したくても論拠が足りない」
「強情だなあ!」
 バスターはあきれ果てたように嘆息したが、かすかに微笑を浮かべていた。
「それじゃあ、ルサリスの蝕腕の自律性をなくすために執る、実際の手段については質問しても構わないかな?
 リオンはこれからどうするつもりなの? ルサリスに手荒なことはしないよね? まさか組織細胞を破壊するとか、どこかの神経を切除するとか、そんなことはしないよね?」
 バスターの口調から先ほどの詰問じみたきつさはなくなり、単なる確認といったようすに変わった。
「ただ鎮静剤を投与して、麻痺状態にするだけだ。あくまでも一時しのぎだが、自律性がなくなる状態までは感覚レベルを下げる」
 リオンが返答すると、バスターはあっさりとうなずいた。
 それからロウルとアーヌに振り返り、例の蝕腕についてようやく説明を補足した。
「あれはどうやら≪天使≫が、接触した生物なり物質の組成を解析するために発達した感覚器官らしい。自律性をもった状態だとかなり過敏な触覚が発現してしまうようだ。
 ルサリスの場合、それが常に体外に飛び出していたら、戦闘時には不利になるかもしれないね」
 先ほどまでとはうってかわって、リオンの判断を肯定するような発言さえ加えている。
「ずいぶんな余裕っぷりね?」
 ロウルが指摘すると、バスターはまたゆっくりと天井を見上げた。
「すぐにきみたちもルサリスも、僕が言っていることが正しいってすぐにわかるだろうからね……」
「何を考えている?」
 フィックスがわりこんだ。
「何をって?」
「まさか、お前は≪天使≫による支配体制を、この現代社会に復活させるつもりなのか?」
「なんでそんな話になるの?」
 きょとんとして、問い返したのはバスターでもリオンでもなく、アーヌだった。
 アーヌがフィックスを見る顔には疑念だけが浮かんでいた。それほどまでに、フィックスは天使を、そしてそれに味方するかもしれないものの存在を、恐れているのだ。
 なんとか剣に手をかけることだけは耐えているようだが、まだ眼に殺気にも似た険悪な光がわだかまっている。
 わずかにためらってから、リオンがバスターとの間に立ちふさがった。
「フィックス。バスターが、≪創世≫について本当のことを知りたい一心で研究を続けていることは事実だと思う。少なくとも俺はそう信じている」
 竜族は、突如として発動した≪創世≫によって居住環境や周辺の生態系に強引な改変が引き起こされ、いちど絶滅しかけていた。大半の竜族は、新たな世界律に最適化された生物の生態系に介入し、一種の寄生関係を成立させることで難を逃れた。しかし竜人族だけが、ほかの竜族とは異質な――自身の肉体に大幅な改変を加えて異生物として転生するという手段を選んだのだ。
 リオンの発言で沈黙が破られ勇気付けられたのか、バスターは再び饒舌に話しはじめた。
「僕たちが、なぜわざわざ寄生する相手を改造したりせず、自分のからだに改変を加えて竜族から分化したと思ってるの? それは僕たち自身が自立した一個の生物として、この世界で生きることを大切にしたいからだ。そして同じように、≪創世≫時に生まれた生き物たちにも、自律性を尊重してもらいたかった。
 僕たちは、原初の竜族がおこなった≪竜の朋友≫への介入とも、創世に使われた≪制御機構≫とも違うやりかたで、きみたち人類種とコンタクトしたことが、それを証明していると、僕は信じている。僕たち竜人族は人類種の脳みそを一切いじくることもなかったし、亜種を造ったりもしなかった」
 愛想をふりまくようにして、バスターは周囲の異種族たちに微笑を向けた。
「寄生を選んだ連中だって、大半は、たとえば植物だとか、動物だとかを宿主に選んでおとなしくしてるんだから。竜族は本来、とても温和な種族なんだよ」
「ディザードの竜騎士たちが聞いたら、腹を立てるだろうが――」
 いまの竜人族を擁護する論旨は、人類種の精神構造に直接アクセスした挙句軍事国家をも成立させた、ディザード帝国派の竜族に対する、真っ向からの対立意見だと受け取れる。フィックスはそれを危惧した様子だったが、
「まあ、引きこもりのお前が彼等と顔をあわせることもあるまいな」
 彼はそれで一応反論を止めることにしたようだった。もちろん生粋のメンディス系人種に属する自分たちしかいないこの場では、バスターの発言はまったく無害だ。
 良くも悪くも、バスターに悪意はない。魔導学の医療分野においてきわめて高い評価を受けているバスターではあるが、結局は狭苦しい研究室にひきこもっていたパバエラ管理官と、同じ穴のむじななのだ。いずれ偏狭な価値観を矯正してやる必要は出てくるだろうが、それは今でなくてもよい。フィックスはそう考えた。
「それで、バスターよ」
 彼は大仰に腕を組みかえた。こいつらの話の冗長さときたら、まさに議論のための議論と評するにふさわしい。いつになったら本題に入るというのか。
「ここまでの長話は、件の毒虫(ルサリス)がリオンにとりろうとした企てに、いかようにしてくびきをいれてくれるのだ?」
「ぼ、僕……そんなこと言ったっけ?」
 あまりにも自分本位な質問に、バスターは目を白黒させた。
「団長。バスターは単に『リオンがルサリスの固有の導き手じゃないかもしれない』としか言わなかったと思うヨ?」
 あきれ果てたように笑って、アーヌは肩をすくめた。
「太古の≪天使≫はいかなる形でも自分の母体にした自然分娩をしないけど、彼女たちはきちんと雌雄のつがいによる生殖活動を行っている。
 ルサリスの体にだって子宮に相当する器官はないし、生殖器も存在しない。でも生殖行為をおこなって、自分の複製ではない≪自分とは異なる遺伝情報をあわせもった≫子孫を残さないと、≪天使≫は滅びてしまうんだ。人類種と方法論は全く違うみたいだけど、それが天使にとって異生物の≪導き手≫を持つ理由のひとつだ。そして例外なく≪導き手≫に起きた符合の再構築を起点に、≪天使≫への畏怖は彼らの同族へと強制的に伝播し続けてきた。≪天使≫ほど顕著に意識の共有や同化は行わないけど、人類の間でも微弱ながら符号の自己複製や共有が行われている」
「それで、その交接――とよんでもいいものかしら?――によってできた赤ん坊は、いったいどこに産み落とされるの? あるいは、赤ん坊を構成するためのデータが送信されるといったほうが近い? その行き先も≪集合体≫の内部なのかしら」
「そのとおりだよ、ロウル。天使の遺伝子は≪集合体≫の内部に存在する、子宮に相当するセクションに護られて、目覚めるべきときがくるのを待つ。交接によって得られた遺伝情報は、必ずしも天使の≪幼生≫に組み込まれたりはしないけど。単に彼ら下等生物が、自分たちが掌握できない範囲にまで改変されたりしていないかを調べ、常に他種族を土台として君臨するための機構の一部として機能している」
「それじゃ、ウィルフレスのイリューズ姫の出生については、なにも説明できなくなるの?」
 アーヌが失望まじりのため息をついた。
 イリューズ姫は、実母ルーフェミアの自然分娩によって誕生している。ルサリスやキャルフィのような、≪天使≫の多数派となる培養槽生まれの人工生体とは一線を画する存在である。
 また、件の姫が発現していた≪権能≫については、アスティラークをはじめとするごく少数の関係者による、良心的ではあるものの科学的な実証の欠けた証言がわずかに残っているだけだ。周囲が見ていた彼女は天使としての能力をまったく開花させず、ただ人よりもすこし感情の機微にさといくらいの、ごく普通の少女だった。
 ロウルが口をはさんだ。
「私は今も、ルサリスのような強力な異能を持つ女性の天使は、一世代に一体だけしか現れないように制御されているのではないかと思っているわ。たしかにイリューズにも≪原初の天使≫となりうる素養はあったのかも――レヴァランドとルーフェミアの遺伝要素を受け継ぐ個体には違いないんだから――でもルサリスの存在によって、イリューズは≪太古の天使≫としていかなる権能も発現できないように、≪天使≫の社会から淘汰されたんじゃないかと思えたの」
「その根拠は、パバエラが十年ほど前に発表したアレだね? ≪太古の天使≫が自身の生存と≪権能≫のために消費できるエネルギー総量を常に一定のレベルで抑制していなければ、ほかの種族が生存に必要な資源さえ確保できなくなってしまうはずだという」
「そうよ。ルサリスは以前の世代にあらわれた、どんな≪原種≫よりも強力な異能を発現させているし――」
「ルサリスの生命維持装置を稼動させるために消費されている、大量の魔力をもってしても、パバエラが提唱した≪天使種による制御機構≫はなんの動きもみせていない。そうでなくともイリューズ姫が発現した、わずかな≪権能≫が一体なんの脅威になったのか、僕には理解しがたいよ。
 さて、ここからが本題であり、僕ら第四師団がまだ解き明かせていない疑問だ。
 ルサリスがどうしてリオンを自分の≪導き手≫として選んだのか、そして――グレイシャの構築した≪神の騎士団≫において、リオンはルサリスが生まれるより以前は、なんのために生きてたことになるのか」
「あら。他の人たちの存在理由がすべてわかっているかのような物言いね」
 ロウルが揶揄するように笑う。バスターは唇をとがらせて不服そうな顔つきをしたものの、反論は出てこないようだった。とりあえず反撃が成功して溜飲を下したのか、ロウルは鷹揚な口調でつけたした。
「私たち≪神の騎士団≫に選ばれた騎士は、全員が何らかの遺伝子への改変を受けている。その理由は女帝グレイシャの放逐よりもずーっと後に生まれたあなた方でも知っているとおり、当時の王室が推進していた軍拡の流れを汲んだ特殊戦闘技能者の育成と同時に、さらに強靭な種へと進化するための≪交配実験場≫としての役割が期待されていた。さいわい計画は途中で頓挫してしまったから、実際に交配が行われるまでには至らなかったけど、反吐が出るほどの回数のシミュレーションと、恣意的な改造手術が行われたわ」
 ロウルがはっきりと断言すると、フィックスが同意を示してうなずいた。ただひとり、アーヌがいぶかしげな顔をした。
「……ロウルちゃんにも、夫婦になるかもしれなかった相手がいたってこと?」
「当たり前でしょ」
「わあ、お気の毒さま! 相手は男? 女? それとも両方はべらせたの?」
 どういう意味よ、とロウルがアーヌに拳を振り上げると、ディルスが迎合して歓声をあげはじめた。バスターが騒ぎをおさめて話を続けようと何か騒いでいるが、まったく耳にもはいっていない様子である。
「団長、このひとたちなんとかしてくださいよう!」
 バスターが助けを求めたが、フィックスもそっぽを向いてしまった。≪神の騎士団≫時代の詳細な記憶を蒸し返すことは、当事者同士でもよほどの事情がなければ行わない。きわめてデリケートな問題なのだ。
「つがいになる天使もまだ生まれていないのに――俺の≪神の騎士団≫の構成員としての人生は、大半ムダってことになるんじゃないかと、貴方は心配しているわけか」
 口火を切ったのは、リオン本人だった。
 はっとして、アーヌがリオンを振り返った。ふざけて笑いあっていたロウルを放り出す格好となる。ロウルは一瞬呆気にとられた様子だったが、突然、まるで糸の切れた操り人形のように沈黙した。
 まるで、魔術の儀式が始まるかのような静かな口調で、リオンが続ける。周囲の空気が一変していた。
「俺とルサリスが誕生した時機との隔たりや、彼女が≪導き手≫と離れて活動していたことになる、空白期間の説明は今も全くつかない。だけどそれが、彼女が現代人に近いってことを意味するわけではないとは、俺も確信している」
 フィックスにいたっては明らかに、彼の発言そのものを阻止しようとするかのように正面から向き直ってくる。それを制止しようとアーヌとディルスが飛びかかって、なんとか袖口にすがりついた。
 無表情のまま、リオンはバスターの真っ赤な眼をのぞきこんだ。
「ルサリスは、一体なんだということになるんだ?」
 その問いに、バスターは間髪いれず反応した。
「彼女は≪集合体≫内部の≪回路≫の欠損を埋め、さらに高次なかたちへ≪集合体≫の基幹部分を作り変えるために作られた、布石だよ」
「≪回路≫の欠損?」
 おうむ返しの返答にも、バスターは不服そうな様子さえ見せずうなずいた。
「現世代の≪集合体≫は崩壊しかけている。ウィルフレス系・メンディス系を含む精霊魔法文明が、せめてこの島全体の生態系を完全に統御できていたなら、そんなことは起こりようがなかっただろう――個体ひとつひとつの精神構造まで支配できるほどの高度なネットワークだ。≪集合体≫内部では無駄な符号は破棄され、高度だが必要最低限の制御機構だけが残った、とても整備された状態になっていたはずだった。だけど現実のこの島には、それを阻止せんとする強大な異分子がいる」
「竜族のことだな」
 バスターは再度うなずいた。
「いまは対症療法的な≪回路≫の補完だけで間に合っているけど、限界は近いはずだ」
「それでグレイシャはふたたび≪大地の聖女≫にあたる存在を創出し、今度こそ竜族の影響を排除できるかたちへと≪集合体≫を再構築しようとしているのか」
 それ以上、言わないで。ロウルが口元をわななかせたが、声にはならなかった。
 すくなくとも伝説上の≪大地の聖女≫にも、他の天使と同様に≪導き手≫の存在は記録されている。だが、かの聖女は、まるで閃光のごとく華々しく精霊島の歴史を塗り替えたかと思うと、激しくもごく短い戦役の直後、跡形もなく姿を消してしまった。たしかに原初の悪しき世界律と、そこに属する≪太古の天使≫を駆逐した≪旧き大地の聖女≫の活躍は凄まじいものだった。しかし、その≪導き手≫の同族であり、信仰と祈りによって≪聖女≫を支えたウィルフレス系民族の遺伝子への損傷をはじめ、とりかえしもつかない代償を数多く遺したことがわかっている。
 ≪現代の世界律≫では存在しないはずの――≪聖女≫によって駆逐されたはずの、原初の創造物に遺伝的に回帰してしまう≪先祖がえり≫は、戦役後にも大量に生まれてきてしまっていた理由は、そこにある。
「≪聖女≫はとても強大な≪権能≫をもってはいたが、同時に≪集合体≫に対して多大な負荷をかける存在でもある。≪聖女≫が長期間稼動すれば、≪集合体≫はおろかこの世界そのものが、≪権能≫の反動に耐え切れず崩壊してしまったことだろう。彼女は意図的に消去されたんだ」
 ≪聖女≫による改革の恩恵を最大限に享受できたはずのウィルフレスでさえ、自国にとって都合のいい≪権能≫だけを保持した優良種だけを計画的に出生させようとした試みは、どれもうまくいかなかった。
 ウィルフレス系民族の勢力図は、いまや大きくバランスを崩していた。後天的な人体改造による例を除けば、貴族階級にあたる“優良血統の”天使種は急激な減少の一途をたどっている。いかなる≪権能≫も持たない一般人と、現代の教義に反する≪太古の天使≫とに二分化されつつある――だが、それは今に始まったことではない。
「≪集合体≫の再構築が必要になったことは、百年以上も前からわかっていたはずだ」
 それ以上言わせてはいけない。
 いつしかフィックスとロウルが突き刺さるような視線を投げかけていたが、バスターははるか格上の術者から受ける圧力にも屈しなかった。
「ただ、誰もがルサリスの≪回路≫ほども致命的な欠損を目にするまで、その現実を認めなかった」
 語尾が震えていたが、なんとか最後まで言い切った。そのとたん、リオンの脳裏に、はっきりとあるイメージが浮かびあがる。
「――いや、認めることさえできないように作り変えられてしまった。あの≪神の騎士団≫計画の時代にもすでに、崩壊の“前触れ”は起きていた」
 フィックスとロウルはショック状態に陥り、何も考えられなくなった様子だった。
「あのとき、メンディス王国内でも魔導師としての能力を持つ者は減少の一途をたどりはじめるはずだった。……くそ、他にも色々いらんことも思い出してきた」
「やっと思い出したんだね!」
 リオンは陰鬱な表情をしていたが、バスターは涙をこぼさんばかりに狂喜して何度もうなずいた。
 増強計画発動以前、魔導師が減少する前兆に気づいていた者は、ごくわずかだった。
 そのうえに、その説が公表されるより早く、≪神の騎士団≫計画時に魔導師が人為的に大量生産されたことによって、すべてはかく乱されてしまった。のちの迫害で身元を隠した≪神の騎士団≫世代の魔導師とその子孫が大量に流入したことで、魔導学派に属する種族は生存数のうえで見せかけの均衡状態を保ってきたのだ。
「……第一段階、≪凍結≫解除成功だ!」
 バスターは、そのままへなへなと床にへたりこんだ。
「長かった……暗示の解除がこんなにギリギリになるとは、思わなかったよ! こんなにたくさんの条件が揃わなければいけなかったなんて、思ってもみなかった!」
 バスターはリオンにすがりつくと、今度こそ大粒の涙を流して泣きだした。
「ばすたー、おとななのに。泣くなんて、変」
 ディルスが心底不思議そうに首をかしげたが、バスターはこれ見よがしにリオンの制服のすそにすがりついて一層大きな泣き声をはりあげた。
「僕はもう、同じことを何十回も試してきたんだよ。みんなが≪凍結≫されてしまった、あのころから!」
「悪かったな」
 リオンは、ロウルから渡されて使わずじまいだったハンカチを、バスターに渡してやった。が、やはり今回も手遅れだった。バスターが掴んだところには、異様な色をした正体不明の液体が付着している。
「…………。」
「えっ、あれっ、労いのコトバはそれだけ? 悪かったな、ってそれだけ?」
「ロウルの暗示はもうすぐ解けるだろう。だが、フィックスに関しては難物だな」
 フィックスとロウル、二人の共通点は≪神の騎士団≫の施術を最後の最後まで受けるはめになってしまったことだ。長期間≪神の騎士団≫に捕らわれていた彼らには、他の構成員たちよりもさらに強い暗示がかけられている。
 その奥底には、一体どのような記憶が封印されているのか――
「貴方はいつでも僕といるときは実際的というか、無愛想だよね。ところでリオン」
 顔を覆ったハンカチに隠れるようにして、バスターがこっそりとリオンの顔色をうかがっている。その瞳にはもう涙のひとしずくもない。
「貴方は、この僕に免じて≪機構論≫に賛同するようになってくれたりしないのかな?」
 リオンが苦々しげに舌打ちした。
「その露骨に見返りを求める発言のせいで、余計に反例をつきつけてやりたくてたまらなくなった。今にみていろ」
「強情だなあ!」
 すげなくされて、バスターは再びハンカチに顔を埋めたのだった。

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